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日記863

 

 依存症の根本的な原因は、私たちの学習能力にある。つまり、人間から学習能力を消去すれば、物質乱用を撲滅できるということだ。p.405


ものすごく足元にある、あたりまえの指摘。ランドルフ・M・ネシー『なぜ心はこんなに脆いのか 不安や抑うつの進化心理学』(加藤智子 訳、草思社)をざっと読み終えた。目先ではなく足元を照らす。そういう本かなー。というか、自分は足元系の本ばかり手にしがち。

極端な話、わたしたちはみんな何かに依存している。一部の界隈でよく引かれる、小児科医の熊谷晋一郎さんのことばを思い出す。自立とは依存先を増やすこと。依存症の専門医である松本俊彦さんの本を読んでいても感じたけれど、「依存」はつまるところマイノリティを名指すことばなのではないか。広く日常的な使われ方として。

たとえば、テレビゲームをしない集団のなかにひとりだけテレビゲームをする人がいたら、「あいつはゲーム依存」とレッテルを貼られてもおかしくない。みんながテレビゲームをする集団であれば、そんなことにはならないだろう。テレビゲームをする集団のなかでも、メガドライブだけをずーっとやっている少数派がいれば「あいつはメガドライブ依存」と呼ばれるにちがいない。

つまり、コミュニケーションのレンジの狭さが「依存」とされる。魚に詳しいさかなクンさんは魚にどっぷり依存しているけれど、「魚依存」と呼ばれることはない。魚を介して社会と広くつながれているからだ。魚をテーマに多くの人とコミュニケイトできる。メガドライブだけをする人も、得意のメガドライブを使ってコミュニケーションの幅を広げることができれば「依存」とは呼ばれないだろう。

わたしの部屋には本がたくさんある。本と縁のない人がこの光景を見たら、依存的な印象を抱くと思う。そのとおり、依存している。しかし、おなじく本を買い漁る人から見れば「その程度か」と思われるかもしれない。それもまた然り。その程度だ。足の踏み場はしっかりある。全体を把握できるほどの量で、さほど依存してはいない。

ただ、身近に似たような趣味の人がいないため、自意識としては依存的だと感じる。ようするに、「言えなさ」を抱えている。ネットに文章を書くのは依存先を増やす作業かもしれない。換気口みたいな。書きつづけたおかげでつながれた友人もいる。このような気難しい話をおもしろがってくれる人はすくない。「気難しい」というより、自分では恥ずかしく思う。臆面もなく「人間とは?」なんて考えられない。おかしな人だ。

依存症患者の多くも、それぞれに「言えなさ」を抱え込んでいるという。私見では、「言えなさ」こそがあらゆる依存症の入り口なのだと思う。誰にだって、言えないことのひとつやふたつあるだろう。それを糊塗しようと、人は物言わぬ何かに依存する。依存症は「孤独の反芻」といえよう。孤独をやわらげるために学んだ、さらなる孤独。学習能力の袋小路。

『なぜ心は~』に「経路依存性」という概念が出てくる。もののたとえでちらっと触れられているだけなんだけど、興味深いことばだ。あらゆる学習は経路依存的なものではないか。調べたところ、もともとは経済学の用語らしい。一回的で不可逆な偶発事を勘案することばかな。これは連想的な飛躍だが、チェスタトンの有名な警句を思い出した。「なぜフェンスが建てられたのかわかるまで、決してフェンスをとりはずしてはならない」。

 

本当は、その社会的慣習が歴史の遺物だと分かるまでは、破壊する義務はだれにもない。 その成り立ちを知り、何の目的に供されたかを知ってはじめて、その目的が間違っていた、それが間違った目的になってしまった、満たす必要のない目的になってしまった、などということができる。

ɯhɥm - なぜフェンスが建てられたのかわかるまで、決してフェンスをとりはずしてはならない

 

物事にはすべて、固有の経路がある。歴史がある。物語がある。もとをたどればぜんぶ理不尽な偶然でしかないともいえる。しかし、こじつけでも人間は因果の網の目をつくり、そこに棲息している。どんな行動であれ、それが人の仕業であるかぎり、理由や目的がある。ことばを差し挟む余地がある。ここに思いを至せば、頭ごなしに「ダメ。ゼッタイ。」などとは絶対に言えないはずだ。

「ダメ。ゼッタイ。」というコピーは、人間を画然と仕分けてしまう。あきらかに「言えなさ」の淵源として機能している。ことばを奪うことばである。つまり「ダメ。ゼッタイ。」が薬物依存の入り口のひとつになっている。わたしにはそう思えてならない。松本俊彦さんは講演でこう語る。


もともとこの「ダメ。ゼッタイ。」という言葉は国連の”Yes To Life No To Drugs”/「人生にイエスと言おう。ドラッグにノーと言おう」。この翻訳が、なぜか「ダメ。ゼッタイ。」になってしまった。痛みを抱えていて自分の人生に”Yes”と言えない人たちをどうするのか、という想像力に欠けたまま、きれいごとで「ダメ。ゼッタイ。」、あるいは犯罪化が進められてきたのです。

シンポジウム「日本におけるハームリダクションを考える」レポートVol.2


「Yes To Life~」の話は『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』(みすず書房)にも出てくる。誤訳というか、なぜか半分しか訳していない。より重要なのは、“Yes To Life”につなぐことではないのか。「ダメ。ゼッタイ。」だけでは、どこにもつながる道がない。コミュニケーションの余地がない世界観だ。

「コミュニケーションの余地」とは、希望の余地にほかならない。ヒトは誰にもなにも伝達不可能だと感じる袋小路で、絶望する。希望とは何かが伝わる可能性の総体である。いまのわたしはシンプルにそう定義している。伝達の経路を塞いではいけない。これは自分に言い聞かせていることでもある。窓を閉め切らないこと。

 


12月1日(水)

「美しい雨と書きます」。若い女性が電話口で話していた。自分の名前だろうか。ほかの誰かの名前だろうか。詩的な台詞だと思った。美雨という人を想像する。電車のなかで、世界時計を熱心に見ている30代くらいの男性がいた。モスクワ、ケープタウン、ホノルルなどの文字が見えた。なんだかロマンチックだ。そのとなりにはウィリアム・H・マクニールの『疫病と世界史』(中公文庫)を読む白髪交じりの男性。章のタイトルで割り出した。「第六章」とあったので、下巻だろう。

電車内のランダム性がけっこう好きかもしれないと、さいきん思う。まったくちがう種類の人がおなじ空間に居合わせる。暴力的な多様性。嫌でしょうがない時期もあったけれど、考え方が変わってきた。べつの尺度で感じられるようになった、というか。価値評価の軸が増えた。おもしろがれる軸。たぶん、よく見ればなんだっておもしろい。それだけの余裕さえあれば。

昨夜は雷雨がひどくて眠りが浅かった。うまく眠れないと軽くめまいがする。きょうはうまく眠れますように。おやすみなさい。

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