スキップしてメイン コンテンツに移動

日記864


きのうは「言えなさ」と依存について書いた。他方で、コミュニケーション化され得ない残余こそが「その人」をつくるのだとも思う。個人は影として彫琢される。いるときよりも、いないときに前景化する。そういうイメージでとらえている。

孤独は体に悪い。しかし、体がひとつである以上なくすことはできない時間だ。「体は体に悪い」と言うにひとしい。つきあっていくしかない。「自分と向き合う」という常套句があるけれど、あまり健康的なことではないと思う。じっさい大病を患ったときなどに、しばしば強いられる。あるいは、独房のなかとか。就職活動で病む人がいるのもわかる。わたしはまいにち数十分の瞑想をする。瞑想は毒をもって毒を制すような方法だと感じている。いつも毒がまわってしょうがない。キマってる。

哲学のむずかしい概念も「付き合っていけるかどうか」だと倫理学・中世哲学がご専門の山内志朗さんは書いていた。スピノザの「実体」を説明する文脈から。


実体、これはギリシア哲学に由来し、様々な場面で用いられるが、定義しようとすると難しい。基礎的な哲学的概念は、基礎的であればあるほど、したがって頻繁に用いられる概念ほど、正面から考えれば分からなくなる。いや、そういった概念は「分かる」かどうかが決定的な点ではないと思う。それを使いこなし、付き合っていけるかどうかが大事なのだ。その点では人間と同じだと思う。分からないから付き合わないというのでは、人間関係は広がらない。

『わからないまま考える』(文藝春秋、pp.30-31)

 

「わからない」という状態は毒気をはらんでいる。不快な状態だ。人間関係も基本的によくわからんしめんどくさい、不快なもんだと思う。しかし、だからといって放棄するわけにはいかない。おなじことは「自分と向き合う」にもいえる。根気強くつきあっていれば、刹那であれ「わかる」こころよい瞬間がおとずれるかもしれない。

これは極私的な感覚に過ぎないが、セックスも不快だ。あれ以上に不快なことはない。まじで気持ち悪い。でも、うまいことやれば快につながる可能性もある。男性でこんなふうに感覚する人はすくないのかもしれん。女性がどうだかも知らんけど。わたしにとっては哲学も「自分と向き合う」も同様に、まじで気持ち悪い。しかし、うまくいけば快につながる。ごくまれに。そういうものだと思う。

麻薬もまた、快をもたらす毒だった。薬と毒、快と不快はどこかでつうじあうのだろう。不快も欲望のうちなのだ。文章を書くのも難儀で不快だけど、たまに「いいんじゃない?」と思えたりする。生きている状態も不快だけど、たまに空気の匂いや陽射しのあたたかみや雲のかたちがうれしかったりするのでなかなかこの世界から退場できない。みたいなところはある。

きっとあらゆる感覚はなだらかに連続しており、ほんとうは一意に決定しがたい。それは、あらゆる時間が連続していることにもひとしい。人生は現在だけの独裁体制で成り立つわけではない。では、時間とはなんだろう。わからない。しかし、直感的にこう思う。意識それ自体ではないか。ということは、あらゆる意識は連続している? なんかやばい人みたいになってきた。「大いなる宇宙の意志」とか言い出しかねない。やばいなー。逃げよ。しーらんぴ。



雪見だいふくの欠片。

 

12月2日(木)

駅のトイレで小便をしながらひとりごとを言うおじさんがいた。これはきょうに限ったことではない。いつなんどきでもいる。ことばもつい漏れちゃうんだと思う。入浴時に「あ~」と声が漏れるみたいに。しかし、きょうのおじさんは愉快だった。「松谷さん好き……」と小声で口走ってた。放尿しながら告白してた。となりでおなじく放尿しながら、「そうなんすね」と思った。松谷さんには届いていないけど、わたしには届いたよ。

夕方、微妙に過換気を起こしてしんどかった。目を閉じて眼球運動に精を出したら落ち着いた(気がする)。EMDRというトラウマ治療の方法を適当に流用した対処。自分にはかなり効く(ような気がする)。帰り道、街でマライア・キャリーの声を聴いた。

書店で小沢信男が亡くなっていたことを知る。

コメント