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日記866


すべてのことばには護教的な側面があると思う。広い意味で、信じるものを守ろうとする。これは自己理解の仕方として、そう思う。そんな自己理解から人の話を聞いたり、本を読んだりしているふしがある。内側を見る視座と、外側を見る視座はつながっている。おどろくほど緊密に。

人が嘘をつくのは、何かを守りたいからだと友人から聞いた。そうだとするなら、すべてのことばは嘘なのかもしれない。極端だけど、素朴にそう感じるときもある。裏に隠されたものがある。穿った見方をしている。いや、むしろ正直すぎるせいでこうなったのか。嘘とまことも不可分な補完関係にある。あらゆる対義語は密通する。

こんなことを思ったのは、「進化心理学はアメリカの新興宗教」という指摘をtwitterで見かけたから。その含意は知らない。ただ勝手に浮かんだことを書く。

そもそも心を扱う分野は人間の宗教性をさまざまなかたちでパラフレーズしているもんではないかと、わたしは感じる。これはもちろん、個人の感覚に根ざした乱暴な見方だ。「そういう感じがする」というだけ。「心理」には、宗教っぽさをつねに感じる。だからおもしろい。外野からそんなふうに眺めている。

ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』(岩波文庫、上下巻)を読みたいと思いながら、何年も積んである。いまならおもしろく読める気がする。人間は誰でも宗教性を身にまとっている。ひとりであり、複数であるその限りにおいて。意味不明かもしれない。わたしもそう思う。

感情の最前線に興味がある。なんであれ境界の付近は危うい。信心は感情の最前線といえる。知性は感情によって駆動され、感情は信心によって駆動される。そんな感じで心を思い描いている。何かを信じたり、疑ったり。そのはじまりを成立させるしくみはなんだろう。心のはじまりは……。わかるとは思わない。しかし、ずっと気にしている。


 

12月4日(土)

すっきりした話に矛盾を投げ込んで不協和を起こす。なんかそういうことを自然にやってしまうクセがある。それと知らずに火種を投げちゃう。あまりよろしくない。せめて自覚的でありたい。やるならわざとやりたい。不意打ちは自他ともにダメージが大きいから。

スーパーの端っこで、幼い女の子がうれしそうにジャンプしていた。2~3歳くらいかな。なにかうれしいことがあってジャンプしているのではなく、単にジャンプしてうれしそうだった。かなしいから泣くのではなく、泣くからかなしい。みたいな心理といっしょだ。たぶん。ジャンプうれしいよね。わかる。ジャンプは最高の娯楽だ。そういう信心でわたしも生きてる。

とりこんだ洗濯物に蜘蛛がついていた。夕飯に野菜のポタージュをつくりながら、日の短さを感じる。すぐ暗くなってしまう。「光あるうち光の中を歩め」ということばを思い出す。そうそう、冬は日照時間が短い。だから早めに光の中を歩まないと。光あるうち。 


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