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日記868


おなかをこわす
からだをこわす
という
肺をこわす、とか
頭をこわす、なんていわない
どうしてかな、と考えながら開港資料館の前を歩いていく

ぼくの骨髄は
寒暖計で
それがきょうはずいぶん低いとおもう
水銀は腰のあたりか
うつむいて歩いていると
枯葉がすこし舞って、しつっこくついてくる

こんど恋人にあったら
たましい、こわしちゃってね、っていってやろうか
つぶやきながら
枯葉をけっとばし
愁眉をひらく
検疫所のビルの八階に喫茶店があるのを発見したのは
あれは
冬の始め
きょうみたいに寒い日で

エレベーターを降りながら、
いいとこみつけた、と喜んでいた
きょうも
そこへ昇って、にこにこしていよう


北村太郎の連作詩、「港の人」のひとつ。88年4月の現代詩手帖から引いた。きょう、古本屋で買ったもの。以下、うすい感想。こんなふうに日記を書けたらいいなと思う。感情のきざしを見逃さないような。時間は絶えず思いの起伏とともに経過する。

写真を撮りながら、すこしだけ感じる。感情のきざし。カメラを手に街をぶらつく行為は、犬の散歩に似ている。自分の感情にリードをつけて歩く。犬がそこらへんのものをクンクン嗅いでまわるように写真を撮っている。思いの起伏にできるだけ敏く。

つまるところ、自己観察なのだろう。わずかばかりの感情の揺れを撮る。では、その「揺れ」とはなんなのか。どういうときに揺れるのか。前々からことばにしたいとは思うけれど、一向にわからない。

人間は飼育する生きものかもしれない。朝、ぼんやり思った。犬のようにカメラを飼育している。猫のようでも、なんでもいいけど飼育している。あるいは、こう言える。カメラという媒体を通して、感情を飼育している。ことばという媒体を通して、感情を飼育している。人間は誰でもきっと、さまざま仕方で感情を飼育している。

放し飼いにする人もいれば、厳しく管理する人もいる。飼育方法には個々のグラデーションがある。日記はことばを通した感情の、伸びやかな飼育方法だとわたしは思う。

 

綴じ合わされたふたつの季節のように
わたしたちは並んでいる
一日一日をそのからだから剥離させて
あなたの頁がわたしへと繰られてゆく
いつ跡絶えるのだろう
かすかな重みを受け止めながら
足元に降り積もる言葉の堆積に
刻みつけられた遠い日付を
いくたびも反芻している

金子千佳の「日記」という詩。なんとなく思い出した。86年3月の現代詩手帖より。現代詩手帖は、古本屋で見つけたらとりあえず買う。これもなんとなくの習慣。「綴じ合わされたふたつの季節のように」。美しい比喩だと思う。比喩にハッとする感覚は、とても不思議だ。北村太郎の、骨髄を寒暖計に見立てる比喩も脳がぐにぐにする。

いつかの日記で、「比喩は越境を可能にする」と書いた。乗り越えてくる、4DXみたいな感じ。飛び出してくるのよね。比喩はリアリティの支柱だと思う。昨今はデジタル関係の比喩が幅を利かせている。

たとえば「インストール」「アップデート」「充電」等々のことばが身体に適用される。「思考のアップデート」とか「記憶のインストール」とか。しっかり体を休めることを「充電する」と言ったり。デジタル化がわたしたちのリアリティの一部になっているのだろう。

比喩によって、境界が撹乱される。機械と人間が交わりあっている。わたしにはそう見える。比喩にはたんなる修辞技法以上の効果が(たぶん)ある。ヒトの認知を揺さぶるような。ガンガン乗り越えてくるから。人類が発明した最古の4DXだから。へんな比喩だな。最古の4DX。つまり、最古にして最新のなんかやばいやつだから。比喩をあなどってはいけない。


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