スキップしてメイン コンテンツに移動

日記869


西田幾多郎の難解さについて、作家の田中小実昌がこんなことを書いていた。

 

 それは、西田幾多郎の考えが、たいへんにユニークだからだろう。ぼくたちは、いままでになんども読んだのとおなじようなことしか理解しない。自分にわかってることしか、わからないのだ。まったくユニークなものにあうとポカンとし、さっぱりわからない。
 しかし、わかってることを、くりかえし読んで、またわかった気になるのも、わるくないかもしれないが、それが、ものたりなくなることもある。
 ま、そんなことで、西田幾多郎の書いたものを読む。おなじニホン人が書いたものでも、ユニークなものは、知らない外国語で書かれてるようなもので、ひとつ、ひとつの言葉を、新しくおぼえるように読んでいく。

『拳銃なしの現金輸送車』(社会思想社、pp.290-291)

「わからない」を「ユニーク」と捉える。なるほど。たしかに「絶対矛盾的自己同一」なんか、字面からしてユニークだ。こんなこと言い出す人は、後にも先にも西田幾多郎ぐらいだろう。すくなくとも、わたしの身近にはいない。ひとりの哲学者がひねりだした孤独な概念ともいえる。逆にいえば、「わかりやすい」ということは没個性的なのだ。そのぶん共同的。

あたりまえだけど、人は「自分にわかってることしか、わからない」。これも重要な指摘と思う。だから、なにかをわかってもらおうとするときには相手のわかっている範囲に訴える必要がある。付け加える感じ。ちょっとだけ、お邪魔する感じ。相手のユニークネスに訴える。どういう人なのかお互いに知らなければ、わかりあうことも困難だろう。

ネット上での出会い頭の言い争いは、たいてい不毛だと感じる。もう何年も前から感じている。それは上記のような理由による。ことばはそれぞれの置かれた環境、歩んできた経路に依存している。個々人のユニークネスの発露なのだ。おなじ単語でも、微妙に定義がちがうことだってめずらしくない。環境がちがえば、念頭にある風景もちがう。すべての人のことばは孤独で難解だ。ゆえに、おもしろいのだと思う。わからないところへ連れていってくれる。

みんな知らない外国語を話している。そこにわたしはふくまれていない。疎外の感覚がつねにある。誰のどんな話にも、「こんなかに自分はふくまれないのだろう」と感じてしまう。内心の悪癖がある。

たとえば「にんげんだもの」と言われても、相田みつをの語る「にんげん」のなかにわたしはふくまれていないと思う。質問したくなる。その場合の「にんげん」って、なんですか? 責めるのではなく、ただ知りたい。

「知りたい」とか「わかりたい」とか、そういう気持ちの根底にはおそらく、疎外感が横たわっている。わたしはいままで韓国語を勉強したことがないけれど、明日から韓国で暮らすことになったらがんばって勉強するだろう。日本語と英語だけではきっと疎外感を味わう。そんな感じで。

同様に「絶対矛盾的自己同一」と聞いて「んあ?」と思うときにも、疎外感がある。そこにわたしはいない。でも、西田幾多郎はそこにいるらしい。どうやったらそんなことばを話せるようになるのか。わたしは西田ではないから、究極的にはわかりっこないのかもしれない。でもそのことばを、話してみたいとも思う。なんか必殺技みたいでかっこいいし。

個人的に、勉強をする動機の根っこには疎外がある。学びはさびしさの為せるわざだと感じている。小学生のころ、クラスでポケモンが流行っていて、よくわからないまま話を合わせるためにその語彙を勉強していた。そんなことをずっと繰り返している。

「わからない」という感覚はもしかすると、仲間はずれにされる感覚と似ているのかもしれない。その「仲間はずれにされる感覚」を標準として生きている。基本的にみんなのことがわからない。このような気分の要因には幼少期の経験とか、なんかいろいろあるんだろうね。なんかいろいろ。



12月16日(木)

帰路でのこと。改札付近で、前を歩いていた若い女性がとつぜん振り向き、バンザイしだした。「ディ、ディフェンス!?」と一瞬だけ驚いたが、すぐに手を振っているのだと気がついた。後方にいる誰かに別れを告げていた。

改札前は名残の空間だと思う。いなくならないように、いなくなる。手を振ったり、握手をしたり、抱き合ったりして体の痕跡を残そうとする。思い思いの生き生きする体が垣間見える。公共空間に、ふと大胆な「私」が出現する。公と私の汽水域のような空間かな。

電車で大学生くらいの女性が平凡社新書の『ジプシー』を読んでいた。著者の名前が難読だった。水谷驍。下の名前。タケシとお読みするらしい。ひとつ賢くなった。

駅から歩いて帰る途中、道路標識の柱を素手で殴っている男性と遭遇した。左右の拳で5発くらい打って、何事もなかったかのように歩きはじめた。鈍い音が生々しかった。耳にこびりついている。まじでびっくりした。なにかあってむしゃくしゃしたのか、それとも日々の習慣なのか。いろいろあるね。


コメント