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日記870


「終わり/始まり」はおそらく集団的な「ともにあるため」の概念で、孤独はどこまでものっぺりとつづく。ひとりの世界では始点も終点もよくわからない。何年か前、重めの自閉症のこどもとあそんだときに深く感じた。彼はつねに始まっていた。時間が区切れない。あの子の感覚がわたしの体のなかにもすくなからずある。

年末は、終わりと始まりを思う。テレビで誰かが「生き急ぐ」と言っていた。ある詩人は、ひとの内面はいつも生き急いでいるところがあると書いていた。逆に、生き遅れるところもあるのだろう。もうすこし早ければ間に合ったのに。わたしたちはどこか早すぎたり、遅すぎたりする。なんかさいきん、そういうことをよく考える。過剰だったり、過小だったり。ちょうどよくいかない。そこがおもしろかったり、もどかしかったり。


 

このブログをどこかの誰かが読んでいる。それはいったいどのような事態だろう。なんか合うものがあるのか。はたまた、いい感じにずれているのか。何年も書きつづけているけれど、アクセス数はいまがいちばんすくない。だいたい5~10人の方が継続的に読んでくださっている。年末なので、ごあいさつしておこう。ありがとうございます。

ここを見ている5~10人の方々は全員、すばらしい好奇心の持ち主です。そして、おしゃれな人たち。と、勝手に決めつけてみる。「おしゃれ」とは、自分に似合うものや自分の感性に引っかかるものがわかっている、という意味です。主体的な審美眼を備えている、ご自身の感受性の領分を心得ている、そんな人たち。

要は、なにかしらのお眼鏡にかなうっぽい。それ以外に読む理由は考えられません。有益さとは無縁の、役に立たないブログです。いや、広く「心理」に興味がある人には、すこしくらい参考になる部分もあるやもしれぬ。精神医学に関する本をよく読んでいるから。それにしても半端だし、独自の解釈を飛ばしがちなのだけれど……。他人のことは、わからないな。 

ともあれ、ここにくる人はセンスがあると確信しています。書き手のわたしにセンスがあるという話ではありません。これは強調しておきたい。そうではなく。読み手として、ラベルもタグも値段もついていない無名のもの(このブログ)を、ご自身の価値基準で拾い上げることができる。その能力は、並大抵のものではありません。一朝一夕では身につかない。きっと、習慣のたまものでしょう。

触れこみによらない選択ができる。外付けの価値観よりも、自分の内側に存するちいさな価値観に聡い。ひとりひとりの声を聞き分けることができる。そのような人たちが読んでくれているのだろうと想像しています。

以上、怪しい性格診断でした。

よいお年をお迎えください。 



といっても、年内にあと何回か更新しようとは思っている。たぶん。「精神医学に関する本をよく読んでいる」と書いたとおり、さいきんも中井久夫を読んでいた。『[新版]精神科治療の覚書』(日本評論社)。第1版は1982年に出されている。新版は2014年。

 

 不安は訴えることのできるものであり、不安神経症ということばがあるように、ある種の身体感覚を伴い、どこかに受容を求める欲求があり、そして病気といわれて納得しうる余地が残されているように思う。しかし、孤独にはその余地さえあるだろうか? p.112

不安には対応物があるが、孤独には対応物がない。ことばにならない。ひとりでは気づくことさえむずかしい。そうしたたぐいの状態だと思う。心に留めておきたい問いかけだ。「孤独という島ではなんでも起こる」と精神科医の春日武彦が書いていた。これも絶えず念頭にある。ニュースなどに触れながらたびたび思い出す。

冒頭ですこし書いたように、孤独と時間の流れ方は関係している気がする。孤独な時間はのっぺりとして、つかみどころがない。なにをしても、空をつかむような感覚になる。たったひとりでは時空がゆがむ。そういうふうにできているような……。

時間意識は複数人のもとで支えられているのではないか。思考もまた、時間とよく似て複数形なのだと感じる。あまりにひとりだと、どっちもぐちゃぐちゃになる。わたしたちは複数の時間と、複数の思考のなかで生きている。しかし、その影で孤独にゆがんだ部分も持ち合わせている。意識はつねにあいだでゆらぐ。そんな実感で生きている。

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