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日記871


12月19日(日)

神奈川の真鶴まで足を運んだ。twitterでこの町の写真を目にして、行きたくなった。半島の入り組んだ景観のなかを、ひとりで好きなだけさまよう。夢のなかにいるみたいに。それだけの日曜日。

ひとつ手前の根府川駅から海を望める。ひさしぶりに眺めた海はあまりに巨大で、おそろしかった。腹部にゾッと迫るものがあった。

それは、視野が解放される恐怖なのだと思う。都市での生活に慣れた狭い視野が一気に広がる。つかまるところがなくなるような感覚。目を置くところってたぶん、つかまるところなのよ。海は広大で、とっかかりがぜんぜんない。視線の置きどころがわからない。うみこわい。

「こわい」は、「未知」とも言い換えることができる。恐怖心は感情の未分化なまとまりで、時間の経過によってそれがさまざまな想いに分化してゆく。うみやばい。うみすごい。と、すこしずつ興奮に変わる。「こわい」はきわめて原初的な感覚。

怪談に登場する幽霊は、それぞれ多様な感情を連れている。かなしみに取り憑かれた者も、怒りに取り憑かれた者もいる。いずれも「こわい」を起点に語りが派生する。あるいは、お笑いのネタにも「こわい」は頻繁に用いられる。ことしのM-1グランプリで決勝に残った、オズワルドとインディアンスの1回目のネタがそうだった。

「こわい」は感情の卵みたいなものだと思う。タネでもいい。はじめのほうにある未分化なまとまり。こどもは一般に、とてもこわがりだ。「こわい」と感じるときはおそらく、稚気が騒いでいるのだろう。良くも悪くも。こわがりな人は、こどもっぽい。

 


よそ者には公道と私道の境があやふやに見えて、ハラハラしながら細道を歩いてまわった。「ここは人んちの庭じゃないよなー」と自分に言い聞かせながら、のぼったりおりたり。どこにいても、家々の屋根がよく見渡せる。

地元の人しか通らないような横道に入る。どこに通じているのかもわからないまま。このような先の見えない遊歩はひとりじゃないとできない。誰かがいると、「どこいくの?」となる。「なにしてんの?」とか。しらんけど、こっち行ってみよう。おもしろいじゃん。そんなふうに振り切れない。あらかじめ、防衛的にまとめようとしてしまう。おとなとしての、管理の発想がわたしのなかにもしみついている。ちゃんとマネージメントしないと、みたいな。たったひとりなら、管理はいらない。

道はどこかに通じている。かならず。そう信じて足を動かす。もちろん袋小路に行き当たることもあった。林のなかをずんずん進みながら、不安で変な汗をかいた。地元の人さえ通りそうにない道だった。行き止まりであれば、もどればいい。かならずもどれる。そこにもまた信がある。行ける自信と、戻れる自信。両方なければ歩くことはできない。

コミュニケーションもこれと似ている。発言がつながらない、あるいは訂正できないとなると、こわくてなにもしゃべれなくなる。きっとつながる、きっと戻れる。その感覚が得られない関係性やシチュエーションの渦中にいると、ことばは身動きがとれない。

 



広いもの、大きいものを目の前にすると可能性を感じる。なんらかの。伸びしろですね。人は無意識のうちに、自分で自分を狭い場所へ閉じ込めてしまう。たまにはデカイものに触れて、可能性を回復しないといけない。根拠のない可能性の感覚を。

むかしの人がデカい大仏なんかをつくったのも、可能性の回復なんだと思う。デカいものを見ると、可能性を感じるのよ。「世界は広いな」みたいな。「まだいけるな」みたいな。バカっぽいけど、そういう原始的な心理はある。祈りは可能性を賦活する。

歩きながらずっと、頭のなかでモノンクルの「希望のこと」が流れていた。


この街の誰もが気づかずに
生み出し 受け継いできた
美しい景色を私は見ているよ


急な坂道を、ちいさな女の子ふたりが四つん這いになってのぼっていた。「よいしょ、よいしょ」と口を揃えながら。姉妹のようだった。うしろでお母さんらしき茶髪の女性が見守る。すれちがいざまに、「くっつきむしのあるとこいこう!」とひとりの女の子が声を上げた。「くっつき虫のあるところね」とお母さんは静かに復唱していた。

荒井城址公園で散歩するおじいさんと会釈を交わした。いつなんどきも、誰に対しても、あいさつはだいじだ。山登り用のストックを両手に持っていた。坂、きついですもんね。と内心でつぶやいて通り過ぎる。

 


海から吹く潮風を背にし
かもめの歌に耳を傾ける
でもどうしても疲れてしまったら
立ち止まって来た道を振り返れば

海へと日が沈んでゆき
空が黒に染まりはじめ
家に明かりが灯されて
光の粒が広がってゆく

暗くなってきたころ、帰りの電車に乗った。車窓から満月が見えた。ことし、もっとも遠い満月だという。根府川駅に着いたとき、海越しの満月を電車のなかから撮影しはじめるおじいさんがいた。撮り終えてカメラを確認しながら、「きれいだね」と隣のおばあさんに話しかけていた。夫婦かな。

わたしも撮りたかったけれど、眠くて立ち上がる気力がなかった。眠気のせいか、とても幻想的な光景に見えた。月も、地球も浮かんでいる。その事実を感覚できたような。そうだ、幻想ではなかった。わたしたちは浮かんでいる。その上で、まわって過ごす。ゆっくりと、何回も。

帰りの移動時間、聞き逃し配信で高橋源一郎のラジオ「飛ぶ教室」を聞いていた。冒頭の口上がちょうど自分の行動と重なって、あーと思った。なるほど。記録しておきたいので、勝手に書き起こす。いいお話。


 もしかしてあのとき、べつの選択をしていたら、べつの人生を生きていたのではないだろうか。そう思うことありませんか。

 ぼくの知人はときどき、鬱々とした日々がつづくと、家族の許可をとって、すべてから切り離された自由な一日を過ごします。その日は、誰にも連絡せず、誰からの連絡も受けません。携帯はずっと切ったまま。

 朝、ちいさなトランクに身のまわりのものを詰めて出発。着替え、読みたかった本、それからパスポート、へそくりを貯めた貯金通帳、等々。

 そして何時間か列車で、ときには飛行機に乗って出かけます。家からずっと離れた、自分のことを知っている人間が誰もいない街に出かけ、偽名でホテルにチェックイン。そしてずっとホテルの部屋で過ごします。いろんなことを空想しながら。

 もしこのまままパスポートを持って海外に行ってしまったら。誰にも知られないまま失踪してしまったら。そして旅先で、知らない誰かと恋に落ちたら。いや、十年前のあのとき、付き合っていたあの人と結婚していたら。そういえば、あの人はどうしているだろう。連絡先はいまでも持っているのだけど。二十年前のあのとき会社に入らず、親にも黙っていた、自分の好きな道に進んでいたら。

 そうして、もうひとつのべつの道に進んだ自分のことを空想してみる。そうやって一日を過ごし、翌日、家族の待つ家に帰るのだそうです。そのときにはもうすっきりした気持ちで、家族のもとに帰るのが楽しみでしかたがない。彼はそう言っていました。

 もうひとり。これはべつの知人の、妻のお話です。その女性と結婚するとき、彼女は知人にこんな条件を出しました。「一年に一度、完全に自由な一日をください」。その条件を受け入れてふたりは結婚。それから十年。こどもが生まれてからもその習慣はつづいているそうです。

 朝お化粧をして、素敵な服を着て彼女は出かけます。「いってきます」とにっこり笑って。どこに行くのか何をするのか教えてくれませんし、聞いてもいけないのです。やがて深夜、彼女は帰宅します。そのたびに彼は、「この人はこれほど美しかったのか」と思うのだそうです。いったい彼女はどこで何をしているのでしょう。ぼくもまたときどき、もうひとりのぼくがいるような気がするのですが。


すこしだけ失踪してみる。そうして、べつの道があることを思い起こす。可能性の回復なのだと思う。いつだって、いまをなげうつことはできる。でも、またもとの場所へ戻る。ときには、戻らない可能性もあるかもしれない。そんな気分を残しつつ。


 

「そうである」場所から離れて、「そうではない」という否定性に身を投ずる。「ある」だけでも「ない」だけでも、人はつらくなる。名前がほしい気持ちと、名前をなくしたい気持ちを往還する。心はそんな運動体のような。ひだまりのなかで猫が眠っていた。夕方の定位置なのだろう。 

 

 

 

希望のこと。なんか壮大な感じの長い曲。

壮大なものが好きだなーとぼんやり思う。デカいことを考えていたい。


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