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日記876


1月2日(日)

きのうの記事にすこし追記した。

たいせつにしまいこみすぎて忘れてしまう。そういうことはままある。父方の祖母は、しまったものをいつも探していた。父もそれに習ってか、「しまう人」だ。母は真逆で、散らかす。うちの両親はきれいに真逆だなーと、顔を合わせるたびに思う。

母は発言にもエラーが多い。整理することなく、あたりかまわず適当なことを言う。そうやって場を盛り上げる。父の発言はエラーがすくない(ふざけるときも、ふざけることを意識している。どんなときも考えて「わざと」話す)。母がぶちまける無意識を、父が意識的に引き取るかたちで会話はすすむ。

わたしは息子としてどちらの素養も継いでいるけど、どちらかといえば素地は母親に似ている。その土台に父親的な思考の矯正がかかっている。内面では、あたりかまわず思いつきが飛び交う。しかし、アウトプットは慎重にする。自分を観察すると、だいたいそんなハイブリッド構造になっている。もしかすると、ある種の典型的なパーソナリティかも。ある種。どの種だろう。

部屋はいつなんどきも散らかっている。だから、母譲りな性格かとは思う。父の部屋はいつも整理されていて、ちょっとこわい。ところで今朝、「記憶はパーソナリティ構造に依存してアクセスされるように思う」というツイートを読んだ。わたしも似たように感じることがある。でもたぶん、発言者の意図からは逸れる。

記憶は時間を縮減した情報の断片だ。そのときどきの状況をどのように縮減するのか、それは性格によって変わる。性格はいわば、「時の圧縮機」みたいなものだと思う。小説を読む経験は、他人の圧縮機のなかに入るような感じかな。さまざまな圧縮方法がある。小説にかぎらず、ことばにふれることは全般にそうかもしれない。

わたしは、できるだけタイトにギュってしたい。凝縮された表現にぐっとくる。時間を万力で締め上げたい。詩はタイトでいいなと思う。自分の文章は長くなりがちなぶん、短文にあこがれてしまう。ながーい詩もあるけれど。

そうそう、「万力で締め上げたい」といえば、NETFLIXで映画『悪人伝』を観た。マ・ドンソクの腕力にもあこがれる。人を掴んでひょいひょい投げるの。

 


 

映画の内容と関係ないことを書く。観ながらぼんやり、握力だいじだなーと思った。マ・ドンソクは全身握力の塊みたいな男だ。顔面からもう掴んでくる。とにかく掴まれる。どのアクションにも握力を感じる。傘をさす仕草から締まりがいい。

この前、施設にいる祖母と面会後に握手をした。コロナ対策がすこしゆるくなっていて、触れ合うことができた。思っていたより強く握りしめてくれて安心した。まだまだカクシャクとしている。握力はひとつのバロメーターだと思う。

去年の夏ごろから、握力のトレーニング器具を持ち歩くようになった。主目的はトレーニングではない。イライラしたときにやる。かなしいときにも使える。心が乱れたとき、握りまくると冷静になる。気がする。感情が波立つときには、「あとで握ってやる!」と思うようになった。手軽に発散できて、ついでに筋肉もつく。

手の握力のみならず、腕や脚のグリップにも気をつけている。心身の調整のため。それこそ全身の握力。筋トレやストレッチをいろいろ試しながら、「握力なんやなー」みたいなところにたどりついた。

木登りベースで筋肉のことを考えている。つまり、猿の延長として。登らないけど、いつでも登れるように。野生に帰れるように……。木にフィットする体をつくりたい。近年まれに見る謎の抱負だ。理想は動物のように木と戯れることのできる体。これは夢みたいな理想。

もはや「あの服が似合う体型になりたい」とか、そんな次元ではない。木だ。木に選ばれたい。木としなやかに踊りたい。それにしてはまだまだ固いので、すこしずつやわらげていく所存です。

 

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