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日記878 


 

冬のある日
言葉のない手紙が
ぼくに届く

京都アニメーション制作の「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を見て思い出した、曽我部恵一の「メッセージ・ソング」。ピチカート・ファイヴのカバー。作品と直接は関係しない。連想しただけ。この歌詞のように、手紙と「愛」をテーマにしたアニメだった。

手紙は二者のあいだで交わされる。その二者のあいだには、隔たりがある。手紙を可能にする隔たり。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、そんな発信者と受信者の「あいだ」を丹念に描いた作品といえる。ことばが届くまでの「あいだ」。

それは、ことばそのものが立ち上がるために必要な間隔でもある。ともすれば、昨今は忘れられがちかもしれない。ことばとことばのあいだ。あなたとわたしのあいだ。その余白にかならずある、生きた時間。意味がかたちづくまえの時。

多くの「重なり」が描かれる。たとえば、たいせつな人の瞳とよく似た美しい緑色。孤児同士の心の交感。幼い娘が約束した飛翔、そのリフレイン。それぞれの「愛してる」。心は重なりのつらなりではないか。そんな感想を抱いた。感情は比喩となって飛び交う。ポール・ド・マンの『読むことのアレゴリー』をぼんやり思い出す。

「心が一つ存在するために、心は必ず二ついる」と臨床心理士の東畑開人さんが書いていた。「心は何度でも再発見せねばならぬ」と東畑さんは語る。

わたしはこれを、もうすこし飛躍させたい。「あなたがひとり存在するために、あなたは必ずふたりいる」と。もしかすると、ふたり以上いるかもしれない。むろん、じっさいにドッペルゲンガーが存在すると主張したいわけではない。人の世には、比喩が存在する。比喩もまた、ひとつでは成り立たない。べつべつのものを比するたとえ、あいだをつなぐための修辞だ。比喩によって、重ならないはずのふたつが重なる。わたしはあなたの比喩として存在している。

主人公の少女、ヴァイオレットは「愛してる」の意味がわからなかった。物語がすすむにつれて、それがすこしずつわかりはじめる。「意味がわかる」とは、どういうことだろうか。こう問いかけるとき、國分功一郎と熊谷晋一郎の共著『〈責任〉の生成』のなかのエピソードを、わたしはたびたび思い返す。

ある講演で國分さんが「自由意志というのは存在しません」と既存の概念を読み換えるような話をしたところ、最後の質疑応答で客席にいた男性が「私は犯罪の加害者なんです」と前置きし、「自分はずっと罪の意識を持たなければならないと思ってきたけれども、それがどうしてもうまくできなかった。ところが講演を聞いていて、自分ははじめて罪の意識を感じた。自分が悪いことをしたと感じた」と語ってくれたと、そんなエピソード。

加害者の男性は「自由意志はない」という話を聞いた際、涙を流したという。想像するに、比喩的な記憶のオーバーラップが起こったのだと思う。あると思いこんでいたものが、ないのだと言われた。自分だと思いこんでいたものが、自分ではなかった。心がひとつだと思いこんでいた。しかし心は、ひとつだけではなかった。そこで加害と被害のあいだに「重なり」が生じた。自分が二重に分化した、というか……。世界がひび割れた瞬間、犯した罪がわかりはじめた。

「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」もまた、ひとつの孤独な心が複数に変わりゆく物語だった。ところで、いま書きながら助詞が気になった。心がひとつ、心はふたつ。「が」が「は」に変わる。限定性が関連性に変わる、といえるか。特定の対象に位置が与えられるような、文法上の変化。ここも言語学の文献などを参照しながら深めるとおもしろそうだけど、沼にはまりそうなのでいまは「おもしろそう」にとどめておく。

國分さんの話で興味深く感じるのは、「ない」という否定によって有責性が得られたところ。肯定されたのではなく、否定によって罪の意識が芽生えた。破壊、ともいえる。既存のリアリティが壊され、べつのリアリティが立ち上がった感じだろうか。そういえば、ヴァイオレットの変容も否定によって語られる。「もう命令はいりません」と。

変化には、よくも悪くも否定がともなう。いや、正確には否定と肯定の両方が必要なのだろう。肯定性がなければ否定性も生じ得ない。あたりまえだけど、「よい」がなければ「悪い」もない。肯定は否定によって、否定は肯定によって裏支えされている。

単線的なロジックのみでは、心は語れない。
「重なり」を思い描くこと。 


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