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日記880

 

1月が終わった。きょうは2月2日。先月、書けなかったことを拾っておきたい。『ビハインド・ザ・カーブ ―地球平面説―』を観た。Netflixで2月14日まで配信されている。地球は球ではなく、平面だと主張する人々を取材したドキュメンタリー映画。両論併記のようなかたちで物理学者や心理学者らの知見も織り交ぜられている。

ヒトの認知は平面に親和的なのよね。著名な平面説支持者、マーク・サージェント氏が海を望む冒頭の場面を観ながら思った。ああ、たしかに見た感じ平らじゃないか。テレビの画面も平らだし。人間はなんでも平らにしてしまう……。ガチ3次元ではなく、平らな3次元世界を可能にしてしまう。ふしぎなことに、平面にも映像として奥行きが生じる。それでじゅうぶん事足りる。

言うまでもなく、テレビの映像は似非3次元だ。パソコンやスマホもそう。どんな映像表現も、ほんとうは平面。起伏に富むガチ3次元として世界をとらえるって案外むずかしい。動的な見方というか。そのためにはおそらく、絶えざる観測が必要になる。「運動神経がいい」とされる身体は、ガチ3次元が感覚的にわかっている。対して、平面的な視野は静的。ディスプレイは安心して目を留めておける、ケージみたいなもんかもしれない。みんな檻の中。

地球平面説もまた、檻のようなイメージで語られる。わしら、ドームの中にいるんだって。ほんで自転は否定される。地球は静止しているのだと。なるほど。「平面/球面」の対立は言うなれば、「静/動」の対立として捉えなおすことができる。どちらに軸を置くか。

 

 

まったく話が飛ぶけれど、地球平面説を支持する人々を見てわたしはバズ・ライトイヤーを思い出した。いちばん最初の『トイ・ストーリー』で、まだ自分がおもちゃだとわかっていないバズのこと。本物のスペースレンジャーだと思いこんでいる。無限の彼方へ、ほんとうに行けると。揶揄しているわけではない。

小学生のころ、映画館で胸を痛めた記憶がある。スペースレンジャーではなく、ただのおもちゃだとバズが気づいてしまったとき。ひとつの幻想が潰えたとき。スペシャリティが消えたとき。かなしくて仕方がなかった。平面説を嬉々として語るマーク・サージェント氏の青い瞳を眺めながら、あのときの感情を思い出していた。あまりに脆い、幻想の質感を。

感情的な類似で想起したのはもうひとつ、さいきん読んでいた澁谷智子『コーダの世界』(医学書院)。コーダ(CODA)とは、 Children Of Deaf Adultsの略。聞こえない親をもつ聞こえるこどもたち。ろう文化と聴文化の狭間に生まれついた人々を、丹念に追いかけた本。そこにこんなくだりがある。コーダ当事者、北田美千代さんの手記より。


 小学校三年生と四年生のころだったか、七夕で笹に願いごとを書いた短冊をつるしました。私はその短冊に「両親の耳が聞こえるようになりますように」と二年続けて書いたのを、はっきり覚えています。でも、しぜんには治らないことを知り、それなら自分が大人になったらお金を貯めて両親の耳が聞こえるように手術をしようと思っていました。
 でも、両親の耳が一生治らないと知ったのは、その後間もなくでした。pp.184-185

 

こどもが抱く儚い幻想。その裏にある、事実との軋轢。信じていたことが、そうではないと気づく瞬間。過去の意味が変わる。「わかる」と「わかれる」はとても近いところにある。ほとんどおなじと言ってもいいくらい。サージェント氏は地球が平面だと、あるときわかった。それは、多くの人とわかれる選択肢だった。分岐は他方で、新たな出会いのはじまりでもある。

地球平面説の会合はたぶん、似た境遇の者同士が集うピア・カウンセリングのような機能を果たしている。日頃の「言えない」を解消できる。平面説も一枚岩ではないにせよ、仲間が集う場面はじつに楽しそうだった。わかりたい気持ちの裏には、わかってほしい気持ちがある。わたしの考えでは、「さびしさ」と知性は切り離せない。

バズと北田さんのエピソードは、自分の内側で醸成された希望的な世界観と外側の事実とのギャップを物語っている。主観と客観のギャップともいえるだろう。平面と球面の対立もまた、主客のギャップとして取り出せる。平面説を採る人々は、真実を自分の内にとりもどそうとしている。自然科学の観測はその「内面」を排し、外の世界を記述する。

しかし、ヒトがリアリティを紡ぎ出す大元はあくまで「内面」なのだと思う。内のロジックに対して、外のロジックを云々したところで噛み合わない。アメリカには地球平面論者同士をつなぐ、マッチングサイトがあるらしい。地球が平面じゃない人とは付き合えない、というニーズに応じたもの。

わかり合いたくて、それがゆえに、どんどんわかり合えなくなってしまう。ジレンマを感じた。これは平面説にかぎった話ではない。たとえば壊れかけた恋愛関係は、立て直そうとすればするほど解体される。お互い過剰になって、しまいにはうんざりしてくる。こんな心理は、多くの人が経験するはずだ。すると思う。するんじゃないかな。わたしはしました。だいたいおなじだと思う。

虚実のギャップはことばを賦活する。ヒトは埋まらないギャップの中に生きている。なにをするにしても過不足がある。そこにことばが生じる。想像力があるかぎり世界は完成しない。わたしは他人とわかり合おうなんて考えない。それでも、自分なりの「わかってほしい気持ち」は持て余している。何か、過剰さを抱えている。だからこんなものを書きつづけるのだろう。

すっきりしない変な感想になった。まあいいや。まあまあ。そんなにわかんなくても、いいんじゃない? そう思った。いろいろ書いたけど、しらんわ。わしゃ、しらん。「しらんけど」が重要かな。この間合いのとり方。バックステップ。すっと引くリテラシー。

地球はパンダみたいなかたちだと思います。これだ。『ビハインド・ザ・カーブ』の感想を一行で述べるとするなら、これしかない。ちょっとすっきりした。だいたい丸いか平らかなんて、退屈じゃん。どうでもええわ。もっとおもしろい奇想をくれ。これがいちばんしょうじきなところ……。ここから書き始めるべきだった。


 

2月2日(水)

濃厚接触者になった。検査は陰性。



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