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日記883

 

「その人のすべてを愛せますか??」

わからない。「すべて」なんか見えんから。「愛」ってのも捉えがたい。「その人」も同定しきれるか微妙だ。「その人」は、そんなに「その人」じゃないかもしれない。わたしの思う「その人」と、べつの人から見た「その人」はちがう。過去の「その人」と未来の「その人」でもちがう。わたし自身のアングルも時々刻々と変化する。人は変わる。生きているから、わからない。その上で、なにを言えるか考えたい。

千葉雅也と國分功一郎の対談集『言語が消滅する前に』(幻冬舎新書)のなかに、「心の闇」をいかに育むかという話があった。これは、わたしなりの理解だと上記のような態度ではないか。いかに「見通しの悪さ」を感覚し、かつそのなかにとどまりつづけられるか。「わからなさ」の只中にあって、その上でことばを焚べるような。

立木康介の『露出せよ、と現代文明は言う――「心の闇」の喪失と精神分析』(河出書房新社)に触れて、國分氏はこう話す。

 

 あの本で重要だと思ったのは「心の闇」が必要だという指摘です。例として取り上げられていたのは、一九九七年の神戸連続児童殺傷事件、いわゆる「酒鬼薔薇事件」です。評論家たちは犯人の少年の「心の闇」について語った。でも、むしろ「少年は、残念ながら、心の闇をつくり損なった」のであって、自らの「苛烈な欲望」をその闇にしっかりと繋ぎ止めておかねばならなかったというのが立木さんの指摘でした(二七項)。
 きちんと「心の闇」を作ることが大事なのに、それがいままさしく「蒸発」してしまっている。p.117


グリゴーリイ・チハルチシヴィリ『自殺の文学史』(作品者)では、若者の自殺に関する文脈において「少年がやりたいのは死んでしまうことではなく、死と戯れること」とあった。「死んでしまう」を殺人と読み替えてもおなじだろう。「心の闇」は、「戯れ」と互換的かもしれない。少年は「戯れ」にとどまれなかった。「戯れ」の次元をつくり損なった。「あそび」という、埋めずにおく隙間がおそらく「苛烈な欲望」を宙吊りにできる。

たとえば「ぶっ殺すぞ」とブチ切れても、多くの場合ほんとうにぶっ殺すわけではない。ことばと行動のあいだには隙間がある。人がしゃべることばのうち、現実化する部分はとてもすくない。たいていの人はそうした構えで言語を運用している。だからこそ、話すことができる。考えたこと、しゃべったことが何もかも「ガチ」となると、おそろしくて何も言えないし、何も聞けなくなってしまう。

かつて「酒鬼薔薇」と名乗っていた少年はたぶん、ぜんぶをほんとうにしようとしたのだろう。自分の世界を、答えだけで埋め尽くそうとした。問いを抱え込む半端な時間が「蒸発」していた。あるいは「不可解」と遺書に書いて華厳の滝から飛び降りたり、盗んだバイクで走り出したりしちゃうのも、過剰に答えを求めるあまりのことではないか。答えが欲しい。そうした「苛烈な欲望」は、人生の段階に応じて誰の心の内にも生じうる。

でも、答えはわからない。なぜ生まれたのか、なぜ死ぬのか、なんでわたしがこんなことせにゃならんのか、社会って、あるいは世界ってなんなのか。わからないから、つづきがある。話ができる。問いをめぐって語り合える。誰のことばも九分通りは虚だと、わたしは思っている。それでいい、というか、そうでないといけないとさえ思う。虚実は相補的であり、九分通りの虚がなければ一分の実もありえない。戯言がごくまれにリアルな光芒を放つ。良くも悪くも、そこに感動が生まれる。みたいな話は前回の記事にも書いた。どうも似たようなことばかり考えてしまう……。

「九分通りの虚」のうち、どの虚がどんなかたちで現実化するかはわからない。言い換えれば、どの問いがどんな答えに結びつくかはわからない。そんな感覚でことばを使っている。長大なパチンコ台のなかに玉をぽろぽろ落としていくような。そういえば、前回も「確変突入!」などとパチンコを思い浮かべながら書いていた。打った経験はすくないけれど、「確変」のわくわくするあの感じは鮮明におぼえている。

ことばはそう、「確変」をもたらす。確率変動。すべてのことばは、確率的なグラデーションのなかにある。虚か実か、0か100かではない。わたしが「虚」と書くとき念頭にあるのは、現実と拮抗する確率を秘めた虚だ。わかりづらいかもしれないけれど、虚はそんなに虚でもない。

ことばには〈とりあえず在ることにしてしまう機能〉があると、言語学者の野間秀樹氏は論じている。わたしも似たようなことをよく考える。「実在」とは関係なく、とりあえず言ったらなんでも在ることになってしまう。


名づけができたことと、その対象が、実際に言語外現実に「在る」かどうかとは、係わりがない。即ちことばで名づけることは、その対象の存在を保証などしない。しかし私たちはことばによって、私たちの頭の中に、しばしば心の中にと呼んでよいほど強く、その対象を造形しにかかるのである。言語を手掛かりに、言語的対象世界を造形しようとする。

野間秀樹『言語 この希望に満ちたもの』(北海道大学出版会、p.76)


「意識に棲息する」と著者は表現している。たとえば、漫画『ドラゴンボール』の悟空は虚構の人物でありながら、多くの人々の意識に棲息している。「愛」や「神」などの抽象概念も、実質的に存在する保証はないが意識に棲息している。なんだか知らんがあることになっている。「無」でさえ、ことばにした時点であることになってしまう。とりあえず「無」がある、としなければ言及できない。魏の時代の思想家、王弼(おうひつ)は「言は必ず有に及ぶ」と語ったという(前掲同書、p.77)。

言語外の現実と、言語内のシステムはまったく異なる。野間氏の整理によると、人は言語内のシステムを借りて言語的対象世界をつくる。この三つが絡まり合って認知が造形される。

 

言語外現実がある、言語内のシステムがある、言語的対象世界が形造られる。この三つの世界は互いに係わりはあっても、別々の平面に属している。そして言語にとって実に面白いことは、言語によって「言語外現実」だの「世界」だの「宇宙」などという名づけで言語外現実を丸ごと言語的対象世界に取り込むことができる一方で、言語を契機として形造られる言語的対象世界もまた、言語外現実ととりあえず名づけた、この宇宙の一部として生起するという、まるでメビウスの輪のような円環的な姿を見せる点である。(同書、p.79)


ことばでうんぬんする世界と、ことばの外側の現実は異なる平面に属していながら、互いに干渉し合っている。人の生きる現実は虚実が入り乱れ、すんげーぐんにゃりしているとつねづね感じる。やわらかくて、変形しやすい。わたしが「九分通りの虚」ということばで表していた内容は、野間氏のことばで「言語的対象世界」に相当する。「一分の実」は「言語外現実」。これらは相補的に響き合う、と。

しかし、あくまで別々の平面に属している。言語外現実と言語的対象世界はイコールではない。ただ、これを切り分けすぎると虚しくなる。混同しすぎると「あそび」がなくなる。そうした構図が描けるんではないか。これは野間氏の論から逸れる、わたしの見立て。意味は、なさすぎてもありすぎてもいけない。

先日、漫画家の榎本俊二氏がこんな漫画をtwitterに上げていた。

 

 

もしスポーツが壮大なドッキリだったら。スポーツ以外でも、社会活動全般がドッキリだったら。わたしはこうした話に深く共感してしまう。ふとしたときに「なんも意味ねーな」と感じる。魔が差す、というか。なにもかも台無しにしてしまえる暴力的な面が自分のなかには確実にある。

『闇金ウシジマくん』で語られる、「頭めがけて金属バットをフルスイング出来る奴」。そういう奴にかなり近い素質だと思う。意味のタガが外れた奴。人が凶行に至るパターンには、たぶん大きく分けてふたつある。意味を過剰に希求した結果と、「なんも意味ねーな」の結果。たとえば、相模原障害者施設殺傷事件は前者であろう。座間の9人殺害事件なんかは後者と見ている。

アスリートは、ルールに身を預け全身全霊でその競技を行う意味を信じている。たくさんの応援を得て、強靭な意味を帯びた人々。だからこそ、多くの応援者に意味を分け与えることができる。「応援」なる行為は意味の分かち合いだと理解している。強い意味を背負うぶんだけ、アスリートたちにはプレッシャーもかかる。古い例だけど円谷幸吉のように、重圧で自殺してしまうこともある。芸能人のまわりにも似たような意味の機構は生じる。

わたしは「意味」がよくわからない。意味をやりなおしているのだと思う。考えなおす。何度でも。それをしないとタガが外れてしまう。タガの締めなおしとして、本を読んだりブログを書いたりしている。なんかそんな感じがする。タガ(ルール)を嫌がるこどもっぽさもある。なんで服を着なきゃいけないの? といったレベルから。いまいちど思考して再構築することで、ルールを破らずに済んでいる。自分なりの、更生プログラムなのだろう。

「本が好き」とか「考えるのが好き」とかではない。これは犯罪者(自殺者)予備軍の更生プログラムだ。これをやっていないとダメになる。規律の保ち方、ととのえ方、戯れのための手続きみたいな……。やっとしっくりくることばが見つかった。ような。いや、どうだかな。

そろそろ寝る時間(23時過ぎ)になったので終わる。
夜な夜な何やってんだろといつも思う。時間がくるって、ありがたい。


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