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日記884 


古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)に、こんなお話があった。
こどもの誤りと、そこにあるきらめきについて。


 娘はいまも、ある意味で筋の通った誤用を繰り返している。語尾に「です」を付けると丁寧な言い方になることを学ぶと、「やだです」と言うようになった。「パンツ一丁」という言葉を覚えて少し経つと、おしり丸出しの格好で「おしり一丁!」と言い出し、げらげら笑っている。
 そのようなとき、私は彼女の言葉を正さず、むしろできるかぎり保存したいと思ってしまう。身の回りの他者たちへの同調が深刻な課題となる手前の、束の間の自由ときらめきを、そこに感じるからかもしれない。p.25

 

かけがえのないものは、まちがっているのだと思う。誤りは汎化できない。応用がきかない。交換には適さない。あなただけのものだ。ときに、かなしいほど。「できるかぎり保存したいと思ってしまう」、その感情の裏には、こうした直感があるのではないか。

こどもではなくとも、飲みの席などでそっと語られる他者の疵に、おなじようなきらめきを感じるときがある。鈍いきらめき。こどものきらめきは課題の手前にある。おとなのきらめきは課題を過ぎたのち見出される。どちらも「同調」からはこぼれ落ちた時間。疵もまた、できるかぎり保存したいと思ってしまう。悪い気持ちが芽生える。ときどき。

 

 

ただひとつの出来事は、理解されない。そしてすべての出来事は、ほんとうは、いちどきりしか起きない。理解のおよばない誤りとして個人は発生する。「正しい個人」は存在しない。ひとりであることは、まちがっている。ありえない。わたしは、ひとりの人間のありえなさを、できるかぎり保存したいと思ってしまう。

調べ物の途中でたまたま書評を目にした、脇坂真弥『人間の生のありえなさ 〈私〉という偶然をめぐる哲学』(青土社)という本が気になった。おもしろそうなタイトル。シモーヌ・ヴェイユのことばからとっているらしい。人間の生のありえなさ。

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