スキップしてメイン コンテンツに移動

日記885

 

視覚的なイメージが浮かばない人々を「アファンタジア」と呼ぶらしい。ファンタジア(心の目)がない、という意味でアファンタジア。さいきん知った。アラン・ケンドル『アファンタジア イメージのない世界で生きる』(北大路書房)という本を図書館の新着棚で見つけてのこと。

たとえば、頭ん中でリンゴを思い浮かべてと言われても、できない。そのような人がいる。帯には「過去の体験や見た光景をイメージしようとしても暗闇が広がる」とある。著者のアラン・ケンドル氏は、アファンタジアの当事者。

彼による「まえがき」で、「アファンタジアは、人によって受ける影響が異なるようであり、スペクトラム障害である(p.6)」と書かれている(訳されている)ため、「障害」とされているのかと思ったが読み進めるとそうでもないみたい。困難者(sufferer)ではない、と多くの当事者が語っている。ただ、意識せざるをえない差異はどうしてもあるみたい。

わたし自身はイメージできるほうだと思う。しかし、100%主観の話なので「だと思う」としか言えない。自分とおなじ感覚で他人もイメージしているのかはわからない。「イメージできる」とひとくちに言っても、グラデーションがありそう。

はっきりと鮮明にイメージできる人もいれば、うすぼんやりとしかイメージできない人もいるのだろう。そして、まったくできない人もいる。わたしはぼんやりタイプ。もやっとしたリンゴが浮かぶ。蜃気楼のような。

「アファンタジア傾向者の世界は、イメージよりも記述に基づいている(p.25)」という。ナゾロジーの記事にも「アファンタジアの人は、論理的な思考の面で優れている人が多い」とあった。ケンドル氏はアファンタジアのプラス面として「思考の明晰さ」を挙げている。ここを読んだとき、視覚障害者の考え方を思い出した。

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)のなかで、中途失明者の難波創太さんはこう証言する。


「見えない世界というのは情報量がすごく少ないんです。コンビニに入っても、見えたころはいろいろな美味しそうなものが目に止まったり、キャンペーンの情報が入ってきた。でも見えないと、欲しいものを最初に決めて、それが欲しいと店員さんに言って、買って帰るというふうになるわけですね」。pp.54-55

つまり行動がピンポイントになる、と。あるいは同書で全盲の木下路徳さんは、見えない人が道を歩くときの感覚的な「余裕」を語る。


「(…)だから、見えない人はある意味で余裕があるのかもしれないね。見えると、坂だ、ということで気が奪われちゃうんでしょうね。きっと、まわりの風景、空が青いだとか、スカイツリーが見えるとか、そういうので忙しいわけだよね」。p.51


木下さんのおっしゃる通り、たぶん見える人は見えない人にくらべて頭の中が「忙しい」。難波さんのことばを裏返すなら、見える世界は情報量が多い。視覚的なイメージができる人とできない人の比較でも、おなじことが言えるのではないか。イメージできる人はできない人にくらべて、忙しくなっている。

論理的な思考は、「切り分け」を旨とする。焦点を絞って突き詰めていく考え方が「論理的」とされる。べつのナゾロジーの記事では、アファンタジアは「ほとんど記憶違いを侵さない」とあった。記事で解説されている実験結果からも、イメージできる人の「忙しさ」がわかる。

論理的な読解力とは、「そこに書いてある以上のことを勝手に読みこまない能力」といえる。端的に読む。空気は読まない。スマートに要点を掴み出す感じ。「判断を留保する能力」ともいえるかな……。たとえ気に食わない発言であっても、いったんはその線をたどってみる。「気に食わない」という自分の判断は「そこに書いてある以上のこと」にあたる。「判断留保」は記憶の正確性とも関連する。ようするに、余計な加算や減算をしない見方。

視覚障害者やアファンタジアは、余計な判断が比較的すくないのかもしれない。ふらふらしていられない。体の条件から、そうならざるをえないのだと想像する。逆に言えば視覚(および視覚イメージ)は、気を抜くとすぐ注意のふらつきをもたらす。

 

 

ヒトの五感は、直接的な感覚に加えてイマジナリーな感覚も生み出す傾向があるのだろう。視覚イメージのない世界に生きる人々を知って、「イメージってなんや?」とあらためて考える。二重の感覚世界があったりなかったり。基本はあるんだよね。視覚イメージがあれば、聴覚イメージ、嗅覚イメージ、味覚イメージ、触覚イメージもある。おそらくある。はず。もちろん、ない人もいる。うすい人も。イメージの強度には個人差がある。状況にも左右される。

わたしの感覚世界は、聴覚イメージのボリュームが大きい。ほかの感覚にくらべて、相対的に。視覚優位な面もあるが、比較してみるとなんとなく聴覚のほうが強いんじゃないかと思われる。いや、全体的にセンシティブな人間かもしれん……。そのなかでも音が強い。

だいたい、いつも音楽が鳴りやまない。本を読むときは、自分に読み聞かせるように内心で音読する。そのぶん時間がかかる。書くときも、内心の声を聞いてそれを文章に翻訳する。まずは傾聴から。いきなり文章にはならない。話しことばがベースにある。その意味で、すべて口述筆記と言える。しゃべってるのよね。たまに「のよね」とか書いちゃうのは、話しことばの名残り。

こうした感覚の傾向からすると、じつは書くよりしゃべるほうが得意なのかもしれない。おしゃべりは苦手だと思っているけれど、それは思い込みに過ぎず……。どちらかといえば聞き手のほうが得意か。まあいいや。

そういえば、受験勉強の暗記方法は「唱える」が基本だった。歴代の天皇名などを呪詛のように唱えつづけていた。声に出して唱えたほうが記憶に定着しやすいと直感していたのだろう。いまも唱えて勉強するクセがある。唱えて、自分の声を聞く。このループによって記憶に刻まれやすくなる。記憶したいことは、文字通り自分に言い聞かせる。音楽が頭のなかでループしつづける感じにも似ている。たぶん、音全般がループしやすい頭なのだ。

副作用として、怒声などのネガティブな音声もこびりつく。自分の発言もこびりつきやすいため、ことばには気をつけている。ときどき過去の聴覚イメージがフラッシュバックする(視覚イメージがフラッシュバックしたことはない)。くたくたになると幻聴がやってくる。


 

上に「五感」と書いたが、A・S・バーウィッチ『においが心を動かす ヒトは嗅覚の動物である』(河出書房新社)によると、「私たちには五感より多くの感覚がある」らしい。


 現代の感覚科学は、数え方や分類の目的によっては、最大二七の感覚様相があると推定している。触覚、固有受容感覚(後述)、内受容感覚(空腹や心拍など身体内部の状態についての知覚)など、標準的な知覚モデルには当てはまらない感覚がたくさん存在する。こうした感覚はアフォーダンスによる行動がさまざまで、生理的な機能や現象が異なる。p.330

 

「最大二七」。じっさいはもっとありそう。かつ、それぞれにイマジナリーな領域も付随しうるのだろう。ヒトの感覚はとてもふしぎだ。知れば知るほどわからない。ナイーブにも、そう感じてしまう。何周もまわって素朴な無知にもどる。とくに、「イメージ」なるもの。なんでしょうね。謎の副産物。

その場でうまく処理しきれなかった何か、残り物がイメージとしてあらわれるのだと思う。エラー。ひっかかり。余計なもの。意識のふるえ。澱のような。余り。ほんとうはありえない。イメージなんか存在しないほうがむしろ、ふつうなのではないか。

 

仰向けの流木はママだと思う
 

こんな川柳がある。渡辺隆夫という人の作。なぜだか、よく思い出す。うまく処理しきれなかった何か、そのもの。流木に仰向けもうつ伏せもないはずだ。しかもそれが「ママだと思う」なんて、どういう了見なのか。川柳はこれで完結する。五七五。川柳なのだからあたりまえだけど、これ以上の情報がいっさいない。仰向けの流木はママだと思う。そうだね、うん……。

そんなこと言われても困る反面、妙な納得感もある。わかる気もする。「ママなんだろうな」と思わされてしまう、疑問を寄せつけない速度がある。すでに、ずっと前から、仰向けの流木はママだったのだと。この人は三千年ぐらい前から、仰向けの流木はママだと思いつづけているのではないか。だったらもう、仰向けの流木はママだと思う。もうママだよ。

まるっきりウソなのだけど、なにか真に迫るものを感じる。これはなんだろう。ホントかも、と思わせる。仰向けの流木はママかも。ここにイメージの真髄がある。などと大袈裟にも言いたくなる。「仰向けの流木はママだと思う」。これがありえてしまう領域がある。

コメント