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日記887


 

中井久夫の書く「きらめく兆候性」は、俗なことばに変換すれば「ときめき」と呼べる機微のことだろう。というのも、ラッパーの宇多丸さんによる「ときめき」の定義を思い出して。それは「コミュニケーションの入り口に立ったとき」に生じると。

 

宇多丸 そう、だから相互理解の手前で終わらないとダメなんですよ。深く理解してる関係はときめきとは言わないだろ、と。この人とコミュニケーションがとれるかも? の感じがときめきなんですよ。

古川 手に入れちゃったらいけない……。

宇多丸 コミュニケーションの入り口に立ったときがときめきなんですよ……深いなぁ……。

『ブラスト公論 ~誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない 増補新装版』(シンコーミュージック、p.65)


「相互理解の手前」。まだわからない時分の、わからないがゆえの、希望的な試行にひらかれたとき。「知りそめた外国語の語や響きには、そのあらゆる誤解や未熟な理解と並んで、あるいは重ね合わせに、きらめく兆候性がはらまれている」。こう中井久夫が語る、いわば「ことばの入り口」も、単純化しちゃうと「この人とコミュニケーションがとれるかも? の感じ」と似ているのではないか。

前回の記事と重複するけれど、哲学者の古田徹也氏がこどもの未熟なことばから「きらめき」を感覚したそれもまた、「コミュニケーションの入り口に生じるときめき」と捉えることができよう。ことばが通じそうで通じない、少し通じる! といった、つまり桃屋の食べるラー油みたいな心理状態が「ときめき」や「きらめき」を感受させるのである。

そうか。辛そうで辛くない少し辛い、あの商品名は「ときめき」を具体的にパラフレーズした表現だったのだ。辛くても、辛くなくてもいけない。少し辛い。星々の瞬きにも似たラー油のきらめきがそこにある。辛いような辛くないような、辛味の入り口。なるほど……深いなぁ……。

いけそうでいけない、少しいける!といった感覚は、ゲームのレベルデザインにもつうじる。かんたん過ぎても、むずかし過ぎてもプレイヤーは離れてしまう。それぞれの能力段階に見合った適度な障害をクリアするところから、「やりがい」が生まれる。クリアできそうで、できなさそうで、やっぱできるかも!みたいな。「できる」とも「できない」ともつかない、さざなみのみぎわに喜怒哀楽さまざまな感情が生起する。

たとえば、ドラクエの最初でいきなりダークドレアムは倒せない。スライムとの戦闘から徐々にキャラクターを強くしていく。かんたん過ぎず、むずかし過ぎず物語はすすむ。こなれたプレイヤーは「最短クリア」や「低レベルクリア」などの縛りをかけ、難度の調整をみずから行う。間口を狭くする。「ときめきの調整」と言い換えてもよいかもしれない。

 

 

駆け寄って
話しかけたかった
でも出来なかった


南野陽子の「話しかけたかった」という曲をたまに聴いている。コミュニケーションの手前で右往左往して、結局は話しかけられなかった。遠くで思うだけだった。そんな歌詞。入り口にすら立っていない。ずっと手前で、「いつか振り向かせたい」。でも、その「いつか」はこなかった。

ここにも、確かな「ときめき」を感じる。始まる前と、終わったあとが描かれている。その実、なにも起こりはしなかった。ほかの人は知る由もない、ひとりだけの心の内。だけど、けっしてないことにはできない。誰にも認められないけれど、認められないがゆえの「きらめき」がある。

空虚で、意味がない。理解されない。しかし、なくせない。とどこおった時間。そこに、ひとりの個人がいる。わたしがいる。人と人はいかにして出会うのか。お互いの止まった時間のなかで出会うのかもしれない。流れてばかりいたら、すれ違うほかない。

駆け寄って、話しかけたかった。あなたの時間を止めたかった。わたしとおなじように。あなたを止めるために、わたしの時間は止まっていた。あなただけに逢う偶然を、待ちつづけて時が過ぎてゆく。いつでもおしゃれして、浮かれたことを繰り返して、さいごまでひとりで止まっていた。

人を好きになると時間が止まる。待つために。「話しかけたかった」の歌詞は「コミュニケーションの入り口」未満だけれど、希望的な試行にひらかれているという意味では「ときめき」を感じる。あるいは、未熟な「わからなさ」と並行的な「きらめく兆候性がはらまれている」とも。

駆け寄って話しかけたかった。でも、出来なかった。一度も。だから歌になるしか、詩になるしかなかった。つたわらなかった。つながらなかった。残された余白に詩心が自生する。なんて思う。二階堂和美のカバーで知った曲なので、そっちを貼っておこう。




文章は静止した時間そのもので、このブログをおもしろく読める人がもしいるとするなら、似たような場所で立ち止まりがちな人なのだろうと思う。書き手が立ち止まっている、その場所を把握できないとおそらくは読めない。場所の把握はつまり、問いの共有にひとしいかな。時事ネタについてはほとんど書かないし、ここはとくに止まっている……。

「いま」を見つけよう、なんてことはtwitterにまかせて、ここでは流れのゆるい時間を確保しておきたい。時間の淀みは誰のなかにもあると思う。ひとりで立ち尽くしてしまうような。

 

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