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日記888

 

ないことにしない。ないことにするとゆがみが生じる。道端のボルト一本も、ないことにしない。いや、そんなもんまで見留めていたら歩みは遅々として進まない。遅刻しまくりだ。だから大半の時間は、いろいろとスルーしまくる。ないことにしている。夕空も梅の蕾も道行く人々の声も姿も冷えきった指先もすべて無視して目的をこなす。おかげで社会性をともなった一定の速度が保たれる。あらゆる物事を、ないことにして仕事をする。

ここ数日、右肩が痛い。しかし、痛くないことにしていた。大丈夫、なんともない。すると痛みが増してきた。これはよくないと思った。「なんか痛いのよね」と人に言い、痛みを自分の一部として感覚しはじめたら、すこしやわらいだ。へんな力が入っていることにも気がついた。文字通り、肩肘張っていた。

痛みをないことにすると、体はどんどんゆがんでしまう。あたりまえのことかもしれない。精神的な面でも、もしかすると「ないことにする/される」からゆがみが生じるのかと、ぼんやり考える。これも、なんのことはないあたりまえか。

ただ、すべてを白日のもとにさらせばよいわけでもない。多くは隠されている。しかし、ある。ないわけではない。隠されてある。心にとっては、このポケットのような空隙がたいせつなのだろう。たとえば「死」。人間である以上、なしにするってわけにはいかない。いずれ降りかかる。周囲に、我が身に。しかし、あらしめることもできない。生きている以上、隠すほかない。噂話のように。あるいは「生」も、そのようなものか。わたしたちは、生きているらしい。と、風の噂で聞いた。真相は定かでない。

ある種の対話が精神的な失調の治療につながる、ということはそれによって「わたしはちゃんと隠されてある」と感覚できるからではないか。「ひらかれてある」だけではなく、「隠されてある」と。マスキングの効果がより重要だと感じる。隠されていなければ、個人は個人たりえない。隠されていなければ、未来が未来たりえないように。噂話のあやふやな時空間をとりもどすことで、ことばの力動とつながれる。

つたわる。しかし、そんなにつたわるわけでもない。なにがつたわったのかもわからない。そこにおいて、はじめてことばは身動きがとれる。つたわり過ぎてもつたわらなさ過ぎても、がんじがらめで動けない。ちゃんとつたわるし、ちゃんとつたわらないから、大丈夫。あなたは誰にも見つからない。自分自身にさえ。でも、けっしていないわけではない。ないことにはならない。この世界には、領有化されえない聖域がある。

思い出すのは男子トイレの小便器だ。「人がいなくても、水が流れることがあります」と書いてある。これはまさに、聖域を告げる風の噂と言える。誰もいなくても、水は流れる。いや、流れるらしい。わからない。悩ましい。なぜなら、そこには誰もいないのだ。しかし流れるのだろう。川の流れのように。ゆるやかに。いくつも時代は過ぎて、人類が死滅したあとでも。「人がいなくても、水が流れる」とは、そういうことだ。そんな噂だ。むろん、真相は定かでない。

なくはない。しかし、あるとも言えない。なんとも言えん。風のようにあやふやだけれど、確かに感じる。そうだ。ことばは第一に、風だった。人間の吐息。吸って吐く。とたんに霧散する。たんなる観念ではない。もともとは物質に由来する。具体的な質量をともなう塊である。遠いむかしから、いまも。ことばは、おびただしい数の「ヒト」という構造体に由来する。骨と肉塊の器に熱や水や風が入り乱れうごめく体から放たれる。そして空気や光に染み渡り、散乱し、逢着する。

わたしが初めてインターネットに書き込んだことばは、「今日は風が強かったなあ」だった。中学生のころ、とある掲示板に、たったひとこと。20年くらい前。ひとりだけ、この発言を拾ってくださる方がいた。「風にあおられて自転車がたくさん倒れていた」。そんな内容だった。ことばが返ってくる。他愛ない、素朴な喜びを鮮明におぼえている。

2022年3月11日(金)。今日も風が強かった。春らしい。アレルギー性のさらさらした鼻水をマスクの内側で垂れ流す。澄まし顔で堂々と。どれだけ流しても、マスクの内に隠されてあるから大丈夫。口に入ると、すこしだけしょっぱい。倒れている自転車も見た。遠ざかる冬の気配をふくみ込んだ南風だった。まだ咲かない梅の蕾も、すでに散りはじめている梅の花もあった。「朝は寒かったよね」と男子高校生がすれ違いざま話していた。じきに桜の空騒ぎが降って湧く。


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