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日記890


3月18日(金)

自分の体へのおそれがある。体はわたしの知らないことをたくさん知っている。死へのおそれも、この内に孕まれる。強いて漢字で書くなら、「畏れ」。かしこまる。もちろん、おののきもある。自分にとってこの感覚は、あらゆる「他なるもの」へのおそれの根源に位置するのだと思う。

年をとればとるほど体は意に沿わなくなる。このとき、「意」をどう扱うか/扱われるか。それが具体的に問われてくる。よくわからないものと関係しつづけなければならない。知ろうとしたり、忘れようとしたり。つらく当たったり、なだめすかしたり。悲観したり、笑い飛ばしたり。どんな方法をとるかは、過去に培ってきた関係によるところが大きいのだろう。周囲の人をふくめた、自分との関係が「意」に反映される。

他者との付き合いは、とりもなおさず自分との付き合いでもある。「ちがう」と言う人もいるだろうが、わたしにはそう思えて仕方がない。自己と他者はそんなに截然と分けられない。もちろん物理的には分かれている。わたしたちはそれぞれに、ちがう者として生きる。どうしようもなく。しかし、重なる部分もある。これもまた、どうしようもなく。メタフォリカルな部分、とも言える。あなたはわたしの比喩として、わたしはあなたの比喩として存在している。

何度もおなじことを書いている気がする。ここを確かめることが、自分にとってはたいせつなのだろう。わたしはもともと、どちらかといえば「ちがう!」と他者を撥ねつけてしまいがちな人間だった。「おそれ」の大きさゆえに。でもじつは、そんなにちがうわけでもない。と書いて、いまノリで「にんげんだもの」とつづけそうになり、「ちがう!」と歯止めがかかった。いや、そうじゃないんだ、いいんだ、にんげんだ……ちがう!いや、にんげだも……ちがう!にんげ!ちがう!だもの!にんげん!ちがうもの!にんだちがうげものん!ウワアアアアア!!……みたいな葛藤をしつづけることが自分なりの「人間らしさ」なのかもしれない(ヨッ、アウフヘーベン!)。でもたまには短絡的なノリで、ベタに「にんげんだもの」を首肯しても……いやしかし、そう書いた瞬間に居心地の悪さを感じるのも確かで……やっぱ「にんげんだもの」とは言い切れない。非人間的で孤独な自分がいる。けっして肯定できない。肯定されたくない。へんな意地を張っている。

許しを与えてくれることばに対して、「許されてたまるか」と思ってしまう愚かしさがある。しかしそれもまた、にんげ……。このように、「にんげんだもの」はどこまでも追いかけてくる。わたしは迫りくる「にんげんだもの」から何十年も逃げつづけている。許されてしまえばいいのに。らくになるのに。だって、結局はにんげんだモッ……!!ンダミン! 

……セーフ。あぶなかった。この「へんな意地」がなくなるとき、ブログもなくなるのだと思う。いつまでも成仏できない地縛霊みたいに日記をカウントしつづけている。皿を数えるお菊の亡霊と似ている。お菊は、足りない皿をひとつ他者に付け加えてもらうことで消え去った。しかし日記は、いくつ数えれば満了になるのかぜんぜんわからないうえ、欠落も多い。日付を数えつづけることは、とてもむずかしい。たぶん、ひとりではできない。時間はそもそも共同的なものだった。ことばがそうであるように。



風邪を引いたり、地震に動揺したりの一週間だった。あれこれ所用も重なって、今週はかつてなく長かった。ついに金曜日が終わる。ねむたい。こんなことしてないで、さっさと寝ればいいのに。なんか電力受給が逼迫しているらしいし。


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