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日記892


3月24日(木)

体調が悪い。ひとつの要因として、ベースの慢性的な不調は姿勢の悪さからきているように思う。あるいは、意識のまとい方というか。体を制圧するように、意識でがんじがらめにしてしまいがちなのだ。むかしから硬直しやすい。過入力状態で生きてきた。

自然的な「ゆらぎ」を正そうとする検閲官として意識を使っている。ハートマン軍曹でもいい。ゆらごうものなら「頭を切り取って首にクソを流し込んでやるぞ!」と抑えつけてしまう。体はもっと、ゆらゆらしていたほうがいいのに。同様に、ことばの使い方もぎゅっと締め上げがちだ。もうすこし無駄口を叩いたほうがいい。

「何気ないつぶやき」ができない。SNS上でも、日常会話でも。おそらく自分のなかで「伝達に足る/足らない」を鮮明に区別しすぎている。明確な役割があれば果たす。応答すべきは応答する。きほんそれだけ。しかし、たいていの人は謎のふんわりした磁場(いわゆる空気?)に則っておしゃべりしている(ように見える)。わたしは基調として、義務的にしゃべっている。

これらの特性はもう、仕方がない。「ゆがみ」を排するのではなく、培ってきた「ゆがみ」も込みで考えなおそう。「矯正」はできない。すくなくとも、自分にこの考え方は合わない。矯正しようとすれば、ハートマンにハートマンを重ねる事態になる。ハートマンの二重苦、三重苦になりかねん。「矯正」という発想を採用するかぎり、ハートマンが無限増殖していく悪循環に陥る。

30年来の意識のゆがみを利用しつつ、マイルドに体とブレンドできればなと、そんなことを考える。鬼軍曹と和解するように……。ここでの「意識」は、「他人」と言い換えることもできる。他人は全員ハートマン軍曹だと思っているふしがある。おっかなくてしょうがない。どうりで体調を崩すはずだ。

 

 

ハートマンは言う。「俺は厳しいが公平だ。ここに人種差別など存在しない。黒んぼも、ユダ公も、イタ公も、ラテン野郎も見下さん。みんなひとしく価値がない」。すばらしい名言だと思う。価値とは何か、考えさせられる。

逆に言えば「価値」とは、不公平な概念なのだ。「差」を孕む。選別を経て付与される。そして「公平」は、「ランダム」と言い換えることもできる。サイコロやジャンケンやクジ引きは公平だ。「強い/弱い」などといった濃淡がない。いや、ジャンケンは強い人もいるのかもしれない(「強い」と豪語する友人がいる)。しらんけど、通常はジャンケンも「公平」とされている。

しかし、そうだな。ヒトは、サイコロにもジャンケンにもクジ引きにも「強い/弱い」や「良い/悪い」を見出してしまう。わたしも「運が良いね/悪いね」といった会話をふつうにする。他方で、「ぜんぶたまたまやん」と思うハートマンな自分もいる。大きく言えば、生まれたり死んだりする、この命の有り様さえ。

こないだ通りすがったお寺の掲示板に、「大地は公平に春を告げる」とあった。自然の慈悲と無慈悲を同時にあらわしていることばだと思う。なるほど、ハートマン軍曹の考え方は仏教と親和性が高いのかもしれない。「俺は厳しいが公平だ」は、「俺は自然現象だ」と言っているにひとしいのではないか。

「ハートマン=自然現象」とするならば、わたしにとって他人は自然現象となる。イメージがだいぶ広がった。こわいおっさんから大いなる自然へ……。すこし肩の荷が下りた気がする。厳しいが公平な自然の一部として自他がある。自然現象に言わせれば、みんなひとしく価値がない。これは一理ある。無常観ともいえる。

ただ、こうした上から見下ろすような「公平」の考え方は、ひとりの人間には行使できないのではないか。神や仏でもないかぎり。現に、ハートマンは「公平」をふりかざして兵士たちにゆがんだ矯正を施していた。いくら「公平」を掲げたところで人間である以上、みんなゆがんでいる。個人に特有の「ゆがみ」が個人に特有の価値を創出するのだと、わたしは思う。あらゆる価値観は偏っている。

個々の体も同様に、偏っている。偏りながらも、それぞれの偏りに見合った「ちょうどよさ」がある。わたしにはわたしなりの「ちょうどよさ」がある。そこを探り当てたい。よく晴れた休日の昼間、公園のベンチに座って鳩やカラスの動きをぼんやり眺めているときに思う。「ああ、ちょうどいい」と。たとえば、このような。

ひとり公園で座って鳥を眺めているときだけ、正気を取り戻せる。このときだけは、みんなハートマン軍曹ではない。ふつうの人。自分もふくめ、パーフェクトなオーディナリーピーポーと化す。ここが自分の標準点なのだろう。極私的なグリニッジ天文台みたいなもの。白昼のベンチ。

そうだな。他人がみんなハートマン軍曹に見えはじめたら、公園でぼんやりして全身を正気に戻す。ひとつルーティーンとして、明日から実践したい。健康のために……。

余談ながら、「健康とは何か?」と考えるとき、いつも頭に浮かぶイメージがある。それは、カラオケで湘南乃風を歌う人々。彼らは間違いなく健康的だ。あなたにとって健康とは? と問われたら即答したい。「カラオケで湘南乃風を歌うこと」と。ケツメイシでも可。


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