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日記893

 

人はいかにして何かと出会うのか。遭遇するのか。ひいては「意味がわかる」とはどういうことか。自分の抱く問いはすべて、このあたりに収斂していく。と、いまさらながら気がつく。なにを見てもそのことを考えている。おなじひとつのこと。

とくに、写真という媒体にはそれが顕著にあらわれるのではないか。たとえば、わたしのinstagramを見てなにがしかピンとくる人とこない人がいる。出会えるか出会えないかがわりと鮮明に分かれる。この差は、各人が身にまとう意味世界のちがいだと思う。

そこにたどり着くまでの経緯によっても「出会える/出会えない」は変わる。おなじ本を読んでも、時期によって「わかる/わからない」が変化する。おなじ道を通っても、風景が見えるとき/見えないときがある。おなじ人と話しても、盛り上がるとき/退屈なときがある。あるいは音楽を聴いても、映画を観ても……これはあらゆることに言える。

そのとき、それぞれがそれぞれにとってどのような意味をまとっているのか。意味の観測点は逐一ちがう。ひとことで言うと、「視差」に興味があるのかもしれない。パララックス。出会いとは、異なる観測点の交わり。時間も空間も相異なるものがふと結びつき、世界が立体的に立ち上がる。そのとき人は、「出会った」と感じる。「わかる」と思う。ひとつの像がリアリティをともなって結実する。偶然とも必然とも呼びうるような、その結節点をふしぎに思う。

つなぎめが気になる。さかのぼっても、おなじようにつながるのだろうか。高校生のころ、数学の教師に「小学生からやり直せ」と罵倒されたことをたまに思い出す。いまなら、確信をもってこう反論するだろう。「小学生は賢すぎます。わたしは赤ん坊からやり直したいんです!」と。いや、それさえ中途半端だ。できるなら、原始人からやり直したい。まったくなんにもないところから。生きているというこの事態と出会い直してみたい。そんな願望がある。はじまりは、どんなふうだったのだろう。


 

しじみ。

 

3月29日(火)

帰り道、書店で2022年4月号のユリイカをすこし立ち読み。中原中也賞の選評が載っていた。高橋源一郎の文章にうっかり感動する。中井久夫の「きらめく兆候性」を思い出す。わたしは「きらめく兆候性」ということばが好きすぎる。

選考会では、蜆シモーヌさんの『なんかでてるとてもでてる』(思潮社)と、國松絵梨さんの『たましいの移動』(七月堂)がさいごまで競っていたそう。タカハシさんは、両者のちがいを自身の創作に引きつけて反省的に語っていた。受賞作は『たましいの移動』。山口市のサイトに載っている國松さんのコメントがよかった。ぐっときたところを一文だけ引く。

 

先生方の授業をとっていなければ、私は、詩を書いてもいいということに一生気づかずにいたかもしれません。

第27回中原中也賞が國松絵梨さんの『たましいの移動』に決定しました - 山口市ウェブサイト

 

「出会い」と「許し」は、ある面で似ているのかもしれない。詩を書いてもいいということ。わたしはまだ気づいていない。「詩は書けない」と思い込んでいる。書いたこともないくせに。適当な散文なら、いくらでも書けるのに。でも、「適当な散文を書いてもいい」と許可を得るにも、ずいぶん時間がかかった気がする。いまでもまだ、遠慮がちなところがある。得られていないのかも。書いていい人間だとは、とうてい思えない。

むかしよく読んでいたブログに、「私は書けないけれど、それでも書いてもいいのかもしれないと思ったのです」という告白めいた話があって、感銘を受けたことを思い出す。これもまた、ある出会いを語る文脈だった。あなたと出会ってそう思った、と。パブリックにはもう読めなくなっているけれど、ローカルに全文保存している。

「許し」は信頼と不可分だと思う。信じて、そこに身を委ねるような。わたしのなかには、深い猜疑心がある。いくら許されても信じられない。めんどくさいな。

ところで、『なんかでてるとてもでてる』はタイトルからして巧緻な印象を受ける。中也賞の選評でも「上手さ」は指摘されていた。きっとおもしろい詩集だろう。読んでみたい。もちろん、『たましいの移動』も。2冊とも読んで、選考会のようすを想像してみてもたのしいかもしれない。「ほしい物リスト」に追加した。

 

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