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日記894


 

さわ。 

 

4月1日(金) 

なんだかんだここに書いてはいるが、生活を送るうえではどうでもいい。だいたいの時間は「きょうなに食べよう」といった類のことを考えている。ただ靴底の微物みたいに、抽象的で大きな問いがちょっと気になってしまう。あるいは、首のうしろが洋服のタグでちくちくするように。気にならないときはまったく気にならない。だけど、いったん気にし始めると頭がおかしくなる。咀嚼音や耳鳴りにも似た性質があるかもしれない。早い話が自分の病巣なのだろう。神経症の底流にあるもの。

きょう、耳鼻科へ行った。症状はめまいと耳鳴り。メニエール病と診断され、2週間ぶんの薬物をもらう。飲んだらすこしよくなった。薬物は偉大だ。エビデンス万歳。とはいえ根本原因は生活全体のなかにあるため、薬に頼ってばかりもいられない。病は変化の要請だと思う。季節の変化とも同期していそうだけれど、いちばんは生活に心当たりがある。すこしずつでも、変わらないといけないんだろうな。変わりたくねー。めんどくせー。

ところでメニエールの薬、イソソルビドは味がまずいことで有名なのだそう。耳鼻科の先生がおっしゃっていた。「炭酸水で割ると飲みやすいです」とアドバイスされたが、まずはストレートに飲んでみた。最初から決めつけてはいけない。じっさい、そこまでまずくはなかった。がんばって空回りしちゃった感じの味だ。なんとかしようとがんばってる。だから、いちおう飲める。

「がんばってる」をもうすこし解剖すると、失敗気味の料理に味を足してごまかそうとしている感じ。わたしもよくやる。とりあえず塩胡椒を足したり、適当にマヨネーズをかけたり。イソソルビドもそのように、がんばってごまかそうとしてくれている。がんばりには感謝したい。ありがとう。キャッチコピー風に言えば、イソソルビドはごまかしの味。

「ごまかし」は病を考えるうえでも非常に重要で、おそらく誰もがごまかしごまかし体と付き合っている。だましだまし。程度によるけれど、悪いことではない。便意がわかりやすい。ある程度まではごまかせる。めっちゃうんこしたいけど、そんなようすはおくびにも出さずに振る舞える。しかし、臨界点がある。我慢しすぎると、くる。きっとくる。きっとくる。季節は白く。肛門から限りない輝きをあなたに贈るハメになる。

「発症」は基本的に、漏れちゃったんだと理解している。便意の時間スケールは日常的で短い。メニエール病が「漏れる」までの時間スケールは、きっと年単位に及ぶ。ついでに書くと、しばらく収まっていたパニック障害も併発した。これも年単位で我慢したうんこが漏れたのだろう。ごまかしがきかなくなってきた。

しんどいとき、いつもひとりでどうにかしようとしてしまう。こじらせる発想の典型といえる。ゆくゆくは怪しい民間療法に引っかかって、5次元とかにアセンションしちゃうタイプ。そのくらい飛びたい気持ちはつねにある。猜疑心の裏返しとして、「信じたい」という思いが人一倍強い。飛べるなら飛んでしまいたい。

近所のゴミ捨て場によく、アセンション系のスピリチュアル本が捨ててある。「5次元」は大袈裟ではなく、そこらにありふれている。「ご近所さんがアセンションしてたんだな~」と見るたび感じる。その理屈で納得できるのなら、安らかに深く眠れるのだとしたら、すばらしいと思う。

いちばんいいのは、みんなで楽しく週末にバーベキューするような生活だろう。とても健康的だ。そして二次会のカラオケで湘南乃風を歌う。「レゲエ砂浜ビッグウェーブ!」。夏でもないのに。想像するだけで最高だ。心がみるみるヘルシーになってゆく、気がする……。皮肉ではない。それができたら「幸せ最高ありがとうマジで」と思わざるを得ないところまで自分を追い込めると思う。チャクラの汚れが浄化されて魂が金星にアセンションすると思う。ところで、アセンションってなに?


 

なんであれ、ひとりでどうにかするには限界がある。自分に足りないのは、約束。拘束を減らして、約束を増やしていきたい。ささやかなものでかまわない。生活上の処方箋として。

 

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