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日記898

 

 

2ヶ月くらい前から、イス軸法を試している。体調が悪いこともあり、筋トレはしばらくしていない。ゆっくりした方法で体をととのえる、かんたんなやつを探していた。これならいくらでもできる。効果のほどはまだわからないけれど、年単位でつづけようと思う。弱っていても、じーさんになっても、いつでもどこでもできそうなところがいい。

「すぐ効く」といった甘言には惑わされぬよう。自戒を込めて書いておく。長くつづけること。イス軸法も「すぐ」を謳ってはいるが、それは宣伝用の文句だと思う。体とはじっくり付き合わないといけない。プレートテクトニクス理論のように、じわりじわりと深部から胎動していくイメージをもっている。奥深くに焦点を当てて考えたい。

なにごとも、自分の体に合わせて考えながら行う。方法はあれこれ借りながらも、自己流に改良していくことが肝要だろう。おなじ体はないのだから。他方で矛盾するようだけれど、頭ごなしに取り入れることも導入としてはだいじだと思う。まずは言われるがままやってみる。とりあえずの実践。最初は強制的に入る。そこから得られた経験を頼りに、すこしずつ縛りを解除していく。与えられた固い真四角の粘土を、捏ねて捏ねて徐々にかたちにしてゆくように。自分なりに角を取る。呼吸がしやすい型に変える。やらされているうちに、はみ出たくなるんだ。つまり、望みが湧く。そうなれば、その方向に舵を切る。ゆるやかに。これが学びのプロセスではないか。望みを殺すための強制ではなく、望みを得るための強制を自らに課したい。ずいぶん前から、あまりに意欲なく生きている気がする。

とはいえ、手放してもいないのだと感じた。死に臨める態度で生きているわけでもない。体がつらくて、悲愴にも「たすけてほしい」と願ってしまった。必要にとらわれている。もっと自分をいらないものとして、必要なくありたいものだ。そのほうが明るくなれる。悲愴感は「しがみつき」から漂うのだから。


 

4月22日(金)

耳鳴りがする。冷蔵庫の作動音みたいな。ぶーん。きのうの夜、大雨のなか傘の柄を背中に入れて歩くおじさんを見た。両手に荷物を抱えていた。高さの調節ができないため、虚無僧のような格好になっていた。「傘をさす」というより、「傘をかぶる」といった塩梅。前が見えているのか心配になった。

きょうは晴れ。気温も上がる。寒い日がつづいていたので、ほっとする。変化が激しいと、自分の体感がおかしいのか、気象がおかしいのかだんだんわからなくなる。ここのところ体調がすぐれず閉じこもりがちで、ほんとうにわからなかった。春のぽかぽか陽気なのに、自分だけが寒いのだと勘違いしていた。twitterで「さむい」とつぶやいている人がいて気がついた。寒いのは自分だけではなかったのだ。

ひとりではなにもわからないんだと思い知る出来事だった。ぜんぜん脈絡はちがうけれど、「孤独という島ではなんでも起きる」という春日武彦のことばが脳裏をよぎる。ひとりで勘違いしていることは、これにかぎらず山ほどあるのだろう。

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