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日記900


 例えば、「縦が四センチで横が五センチの長方形の面積はいくら?」と聞かれて、山田さんは、「長方形の面積は縦かける横だから、この場合は四×五で。答えは二〇平方センチ」と答えました。
 西田さんは「長方形の面積は縦かける横で、問題の長方形の場合は四×五を計算すればいいんだから、答えは二〇〇平方センチ」と答えました。
 吉村さんは「分かんないけど、だいたい二〇くらい」と答えました。
 答えだけ見れば、西田さんは間違っているわけです。正解を答えたのは山田さんと吉村さん。だけど、みなさんが先生として採点する側だったらどうですか。吉村さんのに丸を付けたくないでしょう? だって、それは答えがたまたま合ってただけなんだから。本人も正直に言っているように、分かっていないわけだからね。
 それに対して、西田さんは、答え(結論)そのものは間違っているけど、考え方(理由)は合っているわけです。もちろん、いちばんいいのは、山田さんの考え方も答えも合っている場合だけど。


平尾昌宏『人生はゲームなのだろうか? 〈答えのなさそうな問題〉に答える哲学』(ちくまプリマー新書、pp.33-34)より。なるほど。おっしゃるとおり、山田さんがもっとも「合っている」。それはそれとしてすばらしい。正解者に拍手。他方で「誰が好きか?」と問うならば、わたしは吉村さんを推す。

この人は計算をしていない。賭けをしている。「答えはこうだ」と言わないところも好き。「だいたい二〇くらい」。わからないだけに、幅がある。20かもしれないし、20ではないかもしれない。ゆったりとした構え。しかもそれが当たっている。

つまり、なんか知らんけどなんとかなっている。無作法な突破力がある。理由はわからない。でも、「だいたい」でなんとかなる。こんな性格の人にわたしは勇気づけられる。吉村さんの蛮勇にも拍手を送りたい。だいたいでええんや!

西田さんの「間違い」もチャーミングでいい。ボケ方としては王道といえる。途中まで完璧で期待させておきながら、最後に外す。みんなで「ズコーッ」である。4×5から真面目に200を導き出す人はそういないと思うので、ボケた可能性が高い。だとすれば、べつの意味で正解。お茶目な西田さんにも拍手だ。

わたしが先生として採点する側だったら、たぶんこんな注釈をつける。ひとつの正解は踏まえつつも、評価の尺度をひとつに限定しない。お笑いコンビ、ぺこぱの松陰寺ばりに肯定していく……。「あなたは正解、あなたは間違い」では終われない。夢見が悪い。

というか、山田さんについて考えることはなにもない。「その通り!」でおしまい。ボケたい西田さんの意図も、まあわかる。吉村さんの考えはブラックボックスだ。わからないのに、当ててくる。お前はなんなんだ。なんで20と思ったのか、逆に教えてほしい。「縦×横だから~」よりも、吉村ならではの論理を知りたい。創作でかまわない。そっちのほうがずっとおもしろい。

幼稚な観点かもしれない。でも、自分の関心はこんなところにある。おもしろがれる余地がほしい。吉村の回答はその余地が大きい。可能性を感じる。むろん、大前提として平尾先生の言わんとすることもわかる。わたしの考えは教科が異なるのだろう。

「わかる」とは、あいだが埋まること。筋道をつけて、出会うこと。アクセシビリティ。吉村には「あいだ」の道程がない。あなたはどこにいるのか。どこから来たのか。おなじ20でも、吉村の20だけは意味がちがっていそうである。「正解」は脇に置いて、異なる見地に立っている人が気になってしまう。悪い癖。しかし、悪さに勝てるものはない。バイキンマンがそう歌ってた。


 

5月20日(金)

相変わらず謎の疼痛が全身をめぐる。とはいえ、なんともないふうを装って過ごせる程度には軽くなってきた。薬のおかげか。ただ朝がつらい。わしゃ老人か!ってくらい体がこわばっている。「体って理不尽だな」と思う。煩わしい。うまくいかない。わからない。「あいだ」が埋まらない。まだ症状を受容できていないのだろう。否認の段階にある。

しかし「こうして滅びゆくのだなー」みたいな、漠然とした見通しは立った。いつまでも肉体がありつづけるわけではない。などとぼんやり感覚しながら、今月は腑抜けのように過ごしている。幾人かの友人たちと再会できてよかった。やがて滅びる見通しが立ったからといって、幸か不幸か急き立てられることは何もない。成さねば! と思えるものがない。ただ会えてよかった。いつだって最終回なのだと思う。命あらばまた他日。

気分はもう、くたばり損ない。毒蝮三太夫がお年寄りに向かってよく言っていた。「くたばり損ないのババア/ジジイ」。いいことばだ。文字で書くとひどい暴言のようだけれど、蝮さんが言えば盛り上がる。きっと生き長らえれば長らえるほど、「くたばり損ない」としての側面を見つめざるをえなくなる。身近な人々がくたばっていくなかで、自分は……と。残された者としての自意識が首をもたげる。

「くたばり損ない」は、死が獲得であり生が損失であることを含意している。くたばれなかった、という損ない。生きている、という損ない。この論理が毒蝮三太夫の「毒」を介して、笑いに昇華される。裏の裏は表、みたいな。ぐるっと一周して受容できる感じがおもしろいなと思っていた。毒のなせるわざ。ここ数年TBSラジオを聞かなくなったので、まだあの番組が健在なのかはわからない。蝮さんご自身もけっこうなお年だろう。

くたばり損ない、いいんじゃないかな。居残り居残り、ついには居直る。「ここにとどまるためにやってきた。だからここにいる」。カフカの『城』を思い出す。


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