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日記901 


5月22日(日)

バイデン来日。新宿東口はお祭り騒ぎだった。左翼のデモと右翼の街宣車が入り乱れワッショイワッショイ。さらには警官の群れに通行人の群れに野次馬の群れにもうムレムレの様相。八方からやかましく、どんな主張もノイズにしかならない。ノイズとしては右も左も一致団結していた。わたしたちはノイズの群れだ。調和しえない。それでもなお、同じ場所にいる。なぜか隣り合う。意味のとれない多声を背に歩く。ちょっと通りがかっただけでも謎の高揚感があった。頭のなかで中島みゆきの「世情」が流れていた。

紀伊國屋書店に寄る。改装されており、へーと思う。若い男性が「タヒさんだ」とつぶやきながら最果タヒの詩集を手にとっていた。知り合いなのか。大学生くらいの男女が岡本真帆の歌集『水上バス浅草行き』をふたりで立ち読みしながら「めっちゃおもしろい」と盛り上がっていた。しかし買わずに戻していた。

地下街サブナードの古本祭りへ。300円均一。ざっと見てなにも買わず。地上に出たところで年配の女性から道を尋ねられ、地図アプリを見ながら案内した。近くのカフェまで。待ち合わせだという。「新宿は目がまわるね」とおっしゃっていた。人間がそこらじゅうから現れては遠ざかる。わたしだけは現れない。たまにはひょっこり現れて、すーっといなくなってもいいのに。と思ったら、ショーウィンドウにうつっていた。わたしは鏡面のなかにいる。

騒音にまみれて撮ったもの。



5月24日(火)

図書館入口の廃棄図書コーナーを見る。2020年10月号の『UP』があった。東京大学出版会のPR誌。もらって帰る。入浴中に読む用として。哲学者、中島隆博の書評がよかった。「夏が好きだと言いなさい」というタイトル。こんな導入から始まる。

 

 小学校の時分である。先生にある時、どの季節が好きかと尋ねられた。わたしが「秋が好きです」と答えたところ、「まだ若いのだから、夏が好きだと言いなさい」というご指導を受けた。秋であろうが夏であろうが好みの問題だから、どちらでもよいのではと思われるかもしれないが、ここはどうしても夏でなければならなかった。というのも、少しずつ世界がよそよそしくなりはじめ、斜に構えることを覚え始めた少年の心を見抜き、もう一度夏の幸福に連れ戻そうとしてくださったからである。それ以来ずっと、夏は特別な季節になった。

ここでとりあげられている本は、広井良典『人口減少社会のデザイン』(東洋経済新報社、2019)。中島さんは著者の主張をひととおり押さえたうえで、その裏にある死生観に着目する。

 

 こうした提言を背後で支えているのは、広井さんの死生観である。ひとつ印象的なフレーズがある。「私自身は、死生観においてもっとも重要なことは、その人にとってのこうした「たましいの還っていく場所」とでも呼べるものを見出すことではないかと考えている」(二六〇頁)。つまり、地域での「ヒト・モノ・カネの循環」は、単に経済の話ではなく、精神的な問題なのだ。
 この間、わたしの方でも、哲学の新しい運動として「世界哲学」を仲間たちと構想してきたのだが、実に興味深いことに、「世界哲学」が問うべき概念のひとつとして、多くの哲学者が「たましい」を挙げていた。「たましい」は、近代的な「精神」や「心」に還元されないような、生のあり方や生の生き方を示すものだ。それは、ひょっとすると名詞化されるものではなく、動詞的な、いや、副詞的なあり方をしているかもしれない。
 その「たましい」を通じて、人のあり方を見つめ直すと、他の人々とともに生きるあり方、とりわけ「福祉」のあり方が変わるはずである。広井さんが強調する「地元」や「地域」は、その上で別の相貌のもと現れる。それは、経済的な指標では評価しきれない、夏の幸福を生きる場所である。

人の思考や行動の裏には、かならず死生観が隠れている。わたしはそう感じる。いまどき、もっとも広く支持されている死生観は「人に迷惑をかけない」だろう。「迷惑をかけずに死にたい」と話すお年寄りは、個人の肌感覚に過ぎないけれど、かなり多い。「ピンピンコロリ」や「健康寿命」などのことばも、「迷惑をかけない」の類語として普及している。「迷惑をかけずに生きたい」も見聞きしたことがある。

「夏が好きだと言いなさい」。この何気ないひとことにもまた、死生観がこめられている。美しい命令だと思った。書評はこう締めくくられる。

 

これは「たましい」への配慮の言葉だ。世界がよそよそしくなり切る前に、伝えておきたい。

 

読み終えてから、浴槽のなかでこんなことばの切れ端を思い出した。「自分が書かなければおそらく誰かが書く日記」という匿名の日記サイトにあったもの。


自分にとって
夏だけが現在であり
それ以外の季節は
過去を思い出すための時間である


中島さんの語る「夏の幸福」も、このような感覚と近いのではないだろうか。「たましい」の居場所としての夏。それ以外の季節はどこか、よそよそしい。

あるいは、これを思い出す。




つねにフレッシュでいること。
それが福音の第一番だ。なんて、お得な耳寄り情報。

他方で、「秋が好きです」と答えた少年の心も無碍にはしたくない。
尾崎翠のことばですくい取っておこう。

 

ふるひつきたい程青い潮に、からだを浸して小波にたはむれた夏のよろこびも、その静けさの中に私をくるんでぢツと抱きしめて呉れようとする秋に託して少しも惜しいとは思はなかつた。

 

夏のよろこびも、秋に託して惜しいとは思わない。それも結構。

もう6月になった。夏がはじまる。


その前に、5月29日(日)。文学フリマへ行く。知り合いや、一方的に知っている有名な方々とお会いできてたのしかった。ばかみたいな感想。何度か「出店しないの?」と問われ、「しない」とこたえる。「まとめるの面倒で!」と明るく。情熱がないとできない。

あるいは、コミュニティ。わたしは何年も写真を撮ったり文章を書いたりしているものの、なんのコミュニティにも食い込んでいない。単にひとりでやっている。漫然と、雑然と。単にひとり。「頭痛が痛い」みたいな言い回しだ。文フリ出店者の多くにはおそらく、ある共同体の一員としての自意識がある。小説家や歌人や批評家などのサークルの内側にいる。なんらかの共同性の感覚がなければ「本をつくって売ろう」とは思えないだろう。

自分にはそうした共同性が欠如している。あまり能動的に「届けたい」とは思えない。なぜか身についた慣性でやる気なくやりつづけている。惰性とも言う。しかし、こんな態度でも届くときには届く。なにかが、だれかに……。それがなんともおもしろく思う。とてもふしぎなことです。だから、つづいているのか。自分のことばが時を経て、自分自身に届くこともある。思いがけず。

ほしいものはたくさんあったけれど、お金が足りなくなった。おどろくほど財布がからっぽだった。素寒貧で会場をあとにする。すれちがいに、哲学者の東浩紀さんがズンズン入場していた。ズンズン。帰り道、電車賃を浮かすために1時間ほどひとりで歩く。記憶を反芻しながら。多くの人とお話して、たのしみが増えた1日だった。課題もいただく。ありがたい。

体調は徐々に安定してきた。5月27日(金)、整形外科で全身がチクチク痛む神経性の症状についてアレコレ質問をしてみたが、おおむね「わかんない」というご回答だった。それはそれで誠実だと思う。わたしにもわからない。神のみぞ知る。ただ、気温が上がると落ち着く人が多いのだとか。希望を処方してもらう。しかし、そうなると冬場が心配になる。

ひきつづき痛み止めを飲むまいにち。


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