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日記902


  あなたの頭の中にある、あの声は何なのだろうか? キッチンでにんじんを切っているときや、バスを待っているとき、届いたメールを見ているとき、ジレンマと格闘しているときに聞こえてくる、あの声。あなたがあなたに話しかけているのだろうか? それともあなたは、その会話が無限に紡ぎ出しているものなのか? その場合、声がやんだら、あなたはどこへ行くのか? 声がやむことはあるのか? 小さい子どもが口に出して話しかけている「僕」や「きみ」とは誰であり、話しかけている側は――特に、その脆い自己がまだ形成中の段階では――誰なのか? 書斎で小説家に話しかけるのは誰なのか? 病室で精神科患者に話しかけるのは? 教会の信徒席で静かに祈っている人に話しかけるのは? あるいは、断片化した自己のメッセージに耳を傾ける、ふつうの聴声者に話しかけるのは誰か? 言語性幻聴によって生み出されたり、撃退されたり、私たちに理解されたりする、ずたずたの解離した断片とは何なのか? ベケットの名づけえぬものは、「それはひとえに声の問題だ。それ以外、どんな比喩もふさわしくない」ことを私たちに思い出させる。

 

チャールズ・ファニーハフ『おしゃべりな脳の研究 内言・聴声・対話的思考』(柳沢圭子 訳、みすず書房、pp.280-281)より。科学書に織り込まれるポエジイが好き。理知的な研究者がふと顔を上げる。それまでの流れから一転して視野が拡散する。科学書のポエジイは、収束と拡散のコントラストで際立つように思う。擬音語でいえば、ギュッと引き締まった思考がブワーッっと拡散する感じ。その運動が心地よい。「詰め」がほどかれる瞬間、というか。ともかくギュッ、ブワーッである。血行がよくなるね。

しゃべることがいつまでも苦手だと思う。おしゃべりはつねに見切り発車だ。うまく統御できない。どっか行っちゃう。心の声であれ、発する声であれさほど変わらない。書くときはそれをいい感じに成形している。どっか行かないようにギュッと束ねて。たまには拡散的な声(ブワーッ)に身を任せてもよいのかもしれない。

SNSのnoteでは、気が向いたときに5分だけひとりでおしゃべりしている(https://note.com/unkodayo)。著者の話す声を聞くと文章が読みやすくなる、みたいな現象はあると思う。面識のある書き手なら、なおさら。それだけ補完材料が増えるから。想像力の負荷が減る。逆に、ノイズが増えて読みにくくなる場合も考えられる。ケースバイケースかな。

ひとりのおしゃべりは内言に近い。そのままではないにせよ、かぎりなく近い感覚でしゃべっている。1.5倍速以上にすると再現性が高い。内言と外言のあいだには、速度差がある。内言の速さにブレーキをかけてアウトプットする。ときに枝分かれする支脈を、ひとつに結びなおしながら。いつも、ふたつの速度が並走している。これは他人と会話するときも変わらない。

さらに吃音傾向があるので発音しづらいことばは事前に避けて通る。マルチタスクを強いられるため、おしゃべりは疲れる。でも、乗っているときはたのしい。歌うようにしゃべれる。時と場合によって乗れるか乗れないかの差が激しく、別人みたいになってしまう。書くときも似ているかもしれない。乗れるか、乗れないか。それしかないような……。読むときも、聞くときも。健やかなるときも、病めるときも。

「テンポが独特」と指摘を受けることが多い。それは内言と外言の速度差によるものではないか。葛藤を調停する「へんな間」ができてしまう。「へんな間があったね」とたびたび言われる。へんな間があるおじさんらしい。

はじめてnoteで音声を公開したとき、「ほんとうにいるんだ」とコメントがついた。もう何年も前だけれど、印象的で鮮明におぼえている。それまでは書き込むだけのユーザーだった。

文章には不在を告げる性質がある。書き置かれ、残されたもの。「ここにわたしはいません」というメタメッセージを孕む。抜け殻みたいな。音声は逆に、存在を告げる。「ここにいます」と。録音されたものであれ、そう感じとってしまう。そんな気がする。

ファニーハフの本でも、「いる」について言及されている。「何かがいる気配の経験(p.248)」と内言の親和性。冒頭に引用した箇所でも「誰なのか」と、他者が想定される。内言を発する者はわたしなのか、わたしではないのか。私的な感覚では、不分明に漂っている。わたしであって、わたしではない誰かがしゃべる。自動的に、他動的に。内言は自他の汽水域である。

『おしゃべりな脳の研究』の帯には東畑開人の名前があり、東畑さんの近刊『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社)でも「心は複数である」などと精神の複数性が強調されている。ひとりでありながら、ひとりではありえない。コラージュされた被造物なのだと思う。わたしたちは生涯を通して世界を継ぎ接ぎしつづけ、世界から継ぎ接ぎされつづける。



数日前から急に気温がぶち上がって、体が追いつかない。いよいよ夏らしい。こうも暑いと、「夏が好きだ」とはとうてい言い難い。どうしよう。やはり、秋あたりで手を打っておこうか。

悩まされていた謎の疼痛は、整形外科医が「気温が上がると落ち着く人が多い」と話していた通り、すこしずつやわらいできた。しかしこれは「良くなった」と言えるのか、猛暑の胸苦しい包容力で「気にならなくなった」だけなのか。

痛みを、より大きな痛みで克服したような状態なのではないか。いや、気にならなくなれば結果オーライか。だって気になんないんだから。いいじゃん。痛みが薄れてきて、さみしいのか? それもあるかもしれない。あんなにジクジク痛かったのに。そっけなくお別れだなんて、いじわる。どうして出会ったんだろうね、わたしたち。

雑誌、文學界の7月号で伊藤亜紗が原因不明の病気を「なんの話をしているのかわからない状態」と例えていた。言い得て妙だと思う。わたしの体はいま、なんの話をしているのだろう。なんとなくまだ痛むけれど、一向にわからない。でも、神経系に訴えを起こしてくる。できることなら、ちゃんと聞き届けたい。

とはいえ、あまり親身になってもいけない。なぜなら、痛いから。気にならないのなら、気にしないでいい。しかしそうは言っても、ないことにもできない。そこそこ世話を焼きつつ、付かず離れず、人間関係といっしょかな……。無視するとへそを曲げてしまいそう。

自分の体がわからないものを宿している。それは、おもしろいことでもある。なんか生まれるかも。ボブ・サップがワラワラ5体くらい生まれてほしい。亀田3兄弟どころの騒ぎではない。ボブ・サップ5兄弟。みんなUFCに送り込みたい。朝青龍でもいい。朝青龍だったら2体でいい。痛みは生命のはじまり。

なんの話かわからない小説を読みたい。なんの話かわからない写真を眺めていたい。いや、基本的に他人は全員なんの話をしているのかわからない。わかる場合は他人じゃない。

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