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日記904


しどろもどろのからだを楽しむ。冗長なことはいいことだ。幾度目かの毎日更新を再開したい。またふたたびの再開。何回でもはじめられる。たぶん8月まではつづける。なんでもいいから書く。鋭く張り詰めた線は切れやすい。たるんだ冗長な線はとらえがたい。切れても切れても迂回路を介してなんとかなる、ゆるみを導入したい。どうあってもよかった。そんな日々を送りたい。せめてことばの上では。「こうあるしかない」という緊張をたるませ、冗長性を汲み上げる。可能性を回復させる。読み書きはたぶん、そのためにある。

5月某日、生稲晃子は待ち合わせ場所だった。「いま生稲晃子の前にいます」と友人に送ったgmailのログが残っている。池袋駅東口で演説(のようなこと)をする生稲晃子の前で、わたしは突っ立っていた。メールを送信してほどなく、生稲氏はいなくなった。まずいと思った。すぐに「生稲晃子は去りました。東口横断歩道の付近にいます」と送信。人間を待ち合わせ場所にしてはいけない。なぜなら、移動するから。生稲晃子は待ってくれない。

7月10日、同氏は参議院議員に初当選した。一介の待ち合わせ場所から、国会議員にまで成り上がってえらいことだ。どおりで待ってくれないはずである。わたしはといえば、駅前でぼーっとしていた5月の頃となにひとつ変わらない。下手をすると二十年以上前から変わらない。待ち合わせ場所として使える、めずらしいタイプの人間かもしれない。それはそれで強み。ということにしたい。

ずっとおなじ場所にいる。たまに立ち止まる人がいて、時がきたら去っていく。そんな感覚がある。通り過ぎる人々を道の端っこで他人行儀に眺めている。時を止めた部分がある。淀みにはまって抜けられない。

心象の比喩ではなく、具体的にそう感じるときもある。たとえば飲み会に行っても、誰とも話さず隅でじっとしているとき。見るからに淀みだ。ライブハウスの隅でひとりうずくまっているとき。ZOOM会議でひとことも発さないとき。あるいは学生時代にさかのぼって、教室で、校庭で、としても同様だった。

そういえば精神科医の斎藤環氏がきょうこんなツイートをしていた。



「30年間の臨床で、カルトにはまったひきこもりを一人もみたことがない」という経験則からはじまる流れのご発言。もうひとつカルト関連で、借金玉氏のツイートを引きたい。



これらのツイートは「ずっとおなじ場所にいる」、わたし自身の問題と通じる。たぶん。じっさい、ひきこもりの経験も就職で苦労した経験もある。あるなー。「信」のありようが変わっているのだろう。といったところで、本日はおしまい。書き始めると長くなっちゃう。軽くでいいのに。

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