いい眺め。
7月16日(土)
施設の祖母と面会。「寂しさ」と「孤独」はちがう、という話を聞く。「寂しさ」は誰かを思うときに生じる。「孤独」は、なんにも思わない境地。祖母はそう定義していた。いつも、おなじ話を何回もする。「寂しさ」と「孤独」の話は、あたらしいレパートリーだった。その場で思いついたのか、ずっと温めていたことかはわからない。
祖母の話は、音楽だと思う。リズムキープがうまい。DJみたいな気分で相槌を打っている。ペースを乱さないように。ふたりで踊れるように。面会時間は30分とかぎられている。序盤は悲しげに始まって、すこしずつ朗らかになり、終盤またしっとりしてくる。話す内容はおなじでも、感情は変化に富む。
耳が遠くて、話しかけても即時的には届かない。しかし、数分ズレて届くことがある。わたしのことばを、自分のことばとして思い出したように話してくれる。聞こえているのだ。すぐに反応できないだけで、聞こえている。「耳の遠さ」には、ざっくり2種類ある。単純なボリューム調節の変調(伝音難聴)と、認知的な意味理解の変調(感音難聴)。
うちの祖母の場合、伝音はそこそこいける。でも、即時的な感音がうまくいかない。ただし、時間をかければわかってくれる。遅れがあるものの、聞こえていないわけではない。まさに遠い。すこしだけ遠くにいる。
「耳が遠い」ということばの含蓄におどろく。「聞こえない」、ではない。遠い。だから、じわじわ伝わる。ことばの伝わる速度としては、ふつうなのではないかと思う。ことばは、すぐに伝わるものではない。なんか言われても、「いや、そうかなー。どうだろう、うーんそうかもしれない、わかんないけど、あーやっぱそうかもな、そうだな、それな!」みたいな迂回路を経て、はじめて受容できるような。わたしがひねくれているだけか……。
自分の言葉を逐次通訳されたことのない人は、話のリズムが乱されてやりづらいイメージを持ってることが多いけど、一度経験すると、自分の言葉が2倍の時間をかけて丁寧に語り直されることに喜びを感じる人が多い。言葉って本来こういう速度で伝わっていくのでいいんだよな、と思ってもらえるのかも。
— 田村かのこ Kanoko Tamura (@art_translator) June 24, 2022
書きながら、このツイートを思い出した。文脈はまったく異なる。しかし祖母との会話も、「あれ、通じてないかな?」と一度はあきらめかけたことばが数分後に語り直されたとき、妙にうれしくなる。しかも、わたしの発言ではなく祖母の発言として再浮上する。「それさっきワシが言うたヤツ!」とツッコミを入れたくなる面もあるけれど、ゆっくりと意味の波紋が彼女の内側で広がっていくさまを見るようでおもしろい。意味のディレイ・エフェクトなのだと思う。
なんだろう、距離を感覚できる喜びかな。
ちゃんと遠さがある。
体内をめぐる迂路がある。
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