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日記911


7月19日(火)

頭痛。なんかぼーっとしていた。1日の記憶がほとんどない。夕食後、写真のことを考えながら散歩。なんにも考えずに何年も撮りつづけている。すこしくらいなにか言えたほうがよいのではないか。とはいえ、写真はよくわからない。半年くらい前に聴取したなんかの動画内で、批評家の佐々木敦さんも「写真は何がよくて何がよくないのかわからない」というお話をされていた。勝手に心強く感じた記憶がある。ただ、わたしの「わからない」には単なる無知もふくまれるが、佐々木さんの「わからない」はそうではないのだろう。

「わからない」に行き当たって精神科医の中井久夫の話を思い出した。『こころの臨床を語る』(日本評論社)という本から引く。


中井 冗談半分でいわれることですが、若いころは病気の診断はつくけれども、人間がまだみえていない。だんだん熟してくると、精神科の場合は患者がみえてくるけれども、今度は病気がみえなくなってくる。最後はオチみたいなものでして、年をとってくると、病気も人間もなんだかわからなくなるけれども、しかし、なんとなく治る(笑)。病気というものも人間というものもそうそうわかるものではない、ということがわかるのですね。
 とにかく、精神科的な見方というものは、精神だけでも一つの全体だし、そのうえその人の生活まで含めて、あるいはからだまで全体的にみるということから、何重にも全体的にみなければならないのかもしれないですね。


冗談半分で無理やりつなげると、写真の習熟にも似たような面があるんではないか。はじめのころは病に浮かされるようにして撮れる。だんだん熟してくると技術が身についてカメラをコントロールできるようになる。コントロールとは、余計なものを削ぐ術である。つまり、病気がみえなくなってくる。さらに先へいくと、病気も人間もカメラもなんだかわからなくなるけれども、しかし、なんとなく撮れる。そんな感じではないかしら……。

写真は全体的な、渺茫たる営みだと思う。個々の生活とフィジカルに深く関係する。中井久夫の語る「精神科的な見方」と冗談半分でつなげたけれど、「何重にも全体的にみなければならないのかもしれないですね」ということばには、写真もそうかもと素朴に思う。

というか、分野に関わらず全体への目配せは必要だろう。わからなくとも感覚的に。以前、ニー仏さんが「全体の構造が見えないまま細部の作業をするのが苦手」といったお話をされていて、共感したことを思い出す。全体は感覚的なもので、感覚が得られると方向も見えてくる。GPSで現在地を観測するようなものかもしれない。おおざっぱでも、自他の位置づけがわかると作業がはかどる。  

俯瞰的な感覚をつかむためには細部の作業が不可欠で、このふたつは並行的なものかな。どちらが先でどちらが後、とはいえない。というわけで撮りつづける。結局、自分の写真についてはなにも言えていない。書きつづければ、すこしくらいつかめるだろうか。

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