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日記915


 

このおまもり、拾って帰りたかったな。

きのう、千葉雅也さんのツイートを引いて「感覚が重要」と書いた。偶然だろうけれど、きょう千葉さんがnoteで「感覚」についての記事を上げておられ、「あ」と思う。「この季節はセミが鳴いているのが本当にすばらしい」と始まる(感覚と理性|千葉雅也|note)。有料記事。

溌剌とした書き出し。わたしの感覚だと、蝉の鳴き声が「本当にすばらしい」とは書けない。余裕がないと、うるさく聞こえる。急き立てられているような気分にもなる。圧倒されてしまう。もちろん、「すばらしいな!夏だな!」と感じるときもある。元気なとき。蝉の鳴き声をすばらしく聞くためには、まず元気が必要だと思う。

夜の虫とはチューニングが合う。鈴虫は本当にすばらしい。元気がなくても聞ける。だから、夜の散歩が好きだ。元気がなくても歩ける。「元気」なる概念は理想郷のようなものではなかろうか。そこに行けばどんな夢もかなうという、遥かな世界。どこかにあるユートピア。どうしたら行けるのだろう、教えてほしい。健康ランドにでも行っとけばいいのか。そうだ、「健康ランド」というネーミングはまさに理想郷そのもの。「元気」や「健康」は誰もがほしがる理想状態の謂なのだろう。

「この季節はセミが鳴いているのが本当にすばらしい」という一行は、健康的な理想を体現している。感動的だ。失礼ながら「ええ子やな~」と、すなおな子どもを前にしたような気持ちで読んでいた。どこから目線だ。失礼。しかし記事の全体にふれると、そんなに的はずれではないこともわかった。過去の記憶と紐づいている。

感覚は理性より先行する、ことばの先触れだと思う。さっき、ピエール・アド『ウィトゲンシュタインと言語の限界』(講談社選書メチエ)に収録されている、古田徹也さんの解説を読んでいた。アドが見抜いたという、ゲーテと後期ウィトゲンシュタインが共有している感情は、たぶん千葉さんの「感覚」とも通じる。

 

それは、ありふれた日常に起こる現実の出来事を原現象として受けとめ、そのものに驚く、という感情である。「われわれは、ここで間違いなくウィトゲンシュタインの最も深い関心事に触れている。彼にとっては、現実を前にしての驚異が常に根本的な感情だったのだから」(九九頁)。原現象に驚異し、「その背後にあるもの」などを探し求めず、原現象それ自体を学説として受けとめること――ウィトゲンシュタインにとってそれは、我々が日々営んでいる言語ゲームをあるがままに記述することにほかならない。それは、アドの表現を借りれば、「「簡素さを信じる」術」(一〇〇頁)だとも言えるだろう。p.165


現実を前にしての驚異。日常の出来事に触れて、極めてシンプルに驚くこと。むかーしニコニコ動画で見た、東浩紀と岡田斗司夫の対談を思い出す。たしか東さんが「人生は豊かで、散歩してるだけでなんかおもしろい」といったような話をしており、岡田さんから「ヌルいこと言うな」とツッコミを受けていた。それを見て「ヌルくないよ」と直感的に思った記憶がある。

ありふれた日常に起こる現実の出来事を原現象として受けとめ、そのものに驚く。ことばの先触れに、からだをひらく。あたりまえの日の流れから、いくつもの「わからなさ」を引き出す。哲学者とは、そのような人々のことを指すのだとわたしは思う。哲学にもいろいろあるけれど……。詩的感受性とも近いかもしれない。中井久夫が『現代ギリシャ詩選』(みすず書房)の「まえがき」に書いていた「きらめく兆候性」をぼんやり連想している。

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