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日記916


7月26日(火)

土砂降りの雨に濡れながら整形外科へ。謎の疼痛は軽減してきた。通院はひとまず終わりにしたいと先生に話す。2ヶ月ぶんの痛み止めをもらって、「またなんかあったら来てください」とのこと。

待合室で、細身のおばあさんに話しかけられる。骨粗鬆症だという。それよりおでこに大きなアザができていて、痛々しかった。お先に会計を済ませ、「お大事に」と領収書・処方箋を受けとる。帰り際、おばあさんに「お大事になさってください」と手を振った。病院におけるお別れのことば。雨はほとんど降り止んでいた。

数ヶ月前に降って湧いた体の痛みは、ストレスによる心身症だったのかもしれない。全身くまなく検査したわけではないからわからないけれど、いまのところの結論。自分の内には苛烈な攻撃性がある。それを万力で抑え込みつつ、なんとかやっている。

歩きながら、格闘技でも始めてみようかと思案する。ちゃんと殴られたい。よくわからん疼痛ではなく、どうせ痛いならリアルな痛みがほしい。とにかく、エネルギーをうまく発散できていない気がしている。もう何年も。自分の暴力性をいかに飼いならすかは、生涯の課題なのだろう。

幾日か前、「ひとり部屋で爆弾を作るのではなく詩を書いてほしい」と詩人の奥間埜乃さんがtwitterでつぶやいておられた。思えば自分は、そんな方向の試行錯誤を下手なりにずっとやっている。ブログもそのひとつ。きょう、秋葉原で通り魔事件を起こした加藤智大さんの死刑が執行されたそうだ。批評社から出た彼の手記を新刊でひとつ買った記憶がある(読んだ記憶はない)。部屋のどこかに埋まっている。

2008年の6月当時は、文化系トークラジオlifeを聞いていた。通り魔事件にふれて、どんな内容だったか。思い出せるのは、柳瀬博一さんが途中で怒りはじめたことだけ。やはり強い感情は記憶に残りやすい。いまでもアーカイブが残っているので、もういちど聞くとあの頃の記憶が立体化するかもしれない。

病院から帰宅して、適当にフォローしまくったPodcastを耳にカレーをつくる。AV女優で文筆家の戸田真琴さんが「コンプレックスは愛を待つ場所」と話していた。カレーを食べて、気分転換に英語の勉強をする。語学はとてもいい気分転換になる。それから、海外に住む日本人のPodcast番組をいくつか聞く。旅行代理店でパンフレットを立ち読みするような感覚と似ている。ちょっとした逃避行。

夕方、鶴見俊輔『日本思想の道しるべ』(中央公論新社)を読みながらうとうと。

 

 日本の文学史には、ヨーロッパの文学史に現れるような、架空の約束によって架空のもうひとつの社会をつくりだすような本格小説は現れなかった。中村光夫によれば、日本の近代文学は欧米の近代文学をお手本としながらも、作家みずからの幼い時の夢がやぶれてゆくようすをそのまま書いた私小説と、それぞれの時代の社会の風俗をこまかく写して時代のうつりかわりを伝える風俗小説とに分かれて、日本文学独自の伝統をつくり出した。ここに見られるフィクションの欠如は、日本の政治思想史にあるユートピア思想の欠如に見合っている。p.13


ここを読んで、『「私」から考える文学史 私小説という視座』(勉誠出版)を思い出した。作家の水村美苗さんがインタビューで、日本的な「読みのモード」では作品と作者をほいほい結びつけがち、みたいなことを語っていたような(うろ覚え)。虚構を虚構として読む、「これはこれ」といったモードではないらしい。そのことを鶴見俊輔は、「フィクションの欠如」と指摘する。

へーと思う。日本的な「読みのモード」は、作者がつねに「答えを知っている者」として想定されてしまうようなモードだろうか。神のみぞ知る世界があるとは思われない。「フィクションの欠如」とはつまり、「神の欠如」とも読めるか。あるいは作者が神になる。人間が神になってしまう世界。どうだろう、安直か。一理くらいありそうか。まあいいや。

ここんとこ1週間ほど、慢性的な頭痛に悩んでいた。きょうの夕方ごろ、思いっきり寝たら解消された。うれしい。だらだらした休日が過ごせてよかった。充実していた。

 

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