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日記917


7月27日(水)

aikoの「ねがう夜」を聴いていた。歌詞を読むと、幽霊と戦っているような感じがする。夢と記憶の話。記憶は性質として幽霊に近い。幽霊は記憶を具現化した表象といえる。風が吹いてもどこにもいかない。いないと思いきや、いる。いると思いきや、いない。どっちやねん。記憶に苛まれている人は、幽霊と戦っているように見える。

「記憶=幽霊」だとするならば、誰にでも幽霊が取り憑いていることになる。そうなのだと思う。ことばにはつねに両面ある。「あなたに伝えている」即物的な面と、「過去の幽霊と戦っている」混濁した面。絶えずどちらも配合されており、その比率は時と場合に応じて変化する。激しているときはたいてい、幽霊の比率が高めだ。成仏できない淀んだシークエンスのつづきとして、怒ったり泣いたりしちゃってる。

現在地の語り口と、過去のある時点から湧き上がってくる語り口。合わせてことばのモードがつくられる。バイトでクレーム対応をしていたとき、怒られながらしばしば「この人はわたしだけに怒っているわけではない」と感じていた。無意識裡に、べつの時間からも怒りを密輸している。いくつもの過去の記憶が怒っている。ほとんど八つ当たりなのだ。

激しい感情にはすべて、八つ当たりの面がある。複合的だから激しくなる。自分をかえりみても、そう思う。四方八方からどんどん汲み上がってしまい、対応関係がわからない。その感情の大元は、なんなのか。心の根幹を正視することは誰にもむずかしい。我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。記憶の姿は杳として知れない。

ブログなんか書いてる奴は、幽霊と戦い過ぎている。日記はさながらスパーリングの記録か。ほどほどにしたほうがよいのかもしれない。幽霊ばっかり見てないで、ちゃんと怒られないといけない。目の前の人と、話さないと。


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