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日記919


7月30日(土)

千葉雅也氏の有料noteを読んでいた。今月で購読をやめるつもりなので、読めるところは読んでおく。貧乏性。そこで気づいたこと。フォローした人がドバドバ流れてくるタイムラインでつまみ食いするより、ひとりの人に流れる時間を読みつづけるほうが自分の体質には合う。だいぶ落ち着く。文章以外でもそれはおなじかもしれない。

もうひとつ、こっちは改めて確認したこと。なぜかむかしから、毀誉褒貶の激しい人物に惹かれる。特有の「キモさ」がある人物とも言えるか。両義性のある人物。「キモさ」を感じない人には魅力も感じない。その「キモさ」はたぶん、「過剰さ」からくる。どっか過剰な人に惹かれる。自分が半端者であるぶん、あこがれもある。いや、「お前も過剰だよ」と近しい人は思うかもわからない……。少々のキモさは自覚している。

きょうは施設の祖母と面会。いつになく穏やかだった。「死ぬの?」と心配になるほど。途中でお互い眠くなる。30分の面会中、「ねむいね」「ねむいよね」と5分に1回くらいのペースで言い合う。毎回、「死」が話題に上がる。そのたび、どう扱えばよいのか逡巡がある。施設の職員さんはたいてい、急いで否定する。「明日にでもお迎えがくるわ」「そんなことないですよ!」という感じ。迷いがない。

わたしは「否定できないな」と考えてしまう。いつ死んでもおかしくない。それは祖母にかぎらない。みんな。自分自身も例外ではない。いつでも、普通に死ぬ可能性がある。さいきん見たインタビューで、ジョナス・メカスが「死ぬことへの怖れはありますか?」と問われ、「ない」と答えていた。「それは普通のことだから」と。さらにつづけて、「何も死ぬことはない」とも語っている。

 

 

 

「死」についての思考は、どうもぐるぐるしてしまう。ぐるぐる。身を任せて、まわってりゃいいのかもしれない。否定したり肯定したり。その場その場でまわっとく。踊るように。

新型コロナウイルスの感染が盛況で、施設によっては面会を制限しているところもあるらしい。うちの祖母が住んでいるところは比較的ゆるい。別れ際に握手もできる。おそらく推奨はしていない。管理者の立場からすれば、できれば触れ合わないでほしいに決まっている。とはいえ、老婆が差し出す手を断ち切るわけにもいかない。わたしもまた、拒否するわけにはいかない。周囲の葛藤をなんとなく汲み取りながら弱く短く握手をして別れた。

家に帰って、ドラマ「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」を観る。このごろ毎週のたのしみ。ドラマを毎週観るなんて、何年ぶりだろう。主人公のウ・ヨンウは自閉スペクトラム症の弁護士。女優のパク・ウンビンがそれを演じる。

私的な記憶。彼女のふわふわした歩き方になつかしさをおぼえる。小学生のとき、クラスに似たような歩き方をする男の子がいた。第一話でウ・ヨンウが歩き出した瞬間、息を飲むほどなつかしかった。指先の細かな波立ちや、目の泳ぎ方までなつかしい。内容よりまず、パク・ウンビンの演技を見ていたくてたのしみにしている。もちろん、内容も興味深い。前々から自閉スペクトラム症への関心もある。体の深いところで引っ掛かりを覚えてしまう。ほんのすこし、わたしも似たところがあるせいか。あるいは思い返すと、ふわふわ歩くクラスメイトの彼が好きだった。なぜか。なぜ好きになったのだろう。

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