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日記922


8月27日(土)

「さみしい」と言われても、「知らんがな」と思ってしまう。ひどいようだけれど、他人の寂しさなど知る由もない。埋めることもできない。ただ、「知り得ない」という観念はしばしば「尊さ」を帯びる。「さみしい」と言うときあなたはきっと、自己の尊厳について語っている。だから、そのつもりで聞く。

施設の祖母と面会した。毎回毎回、うわごとのように「さみしい」と繰り返す。ほとんどそれに終始するのみだが、今回はひとつあたらしい展開があった。古い家族の夢を見るという。狭い家に、こどもがたくさん集まって、賑やかに暮らす。誰がどこの子かもわからない。混濁した「家族」の夢。祖母自身、そのようにして育ったのかもしれない。

思い返すと、祖母はどこの誰だろうがお構いなくつかまえておしゃべりを始める人だった。ウチとソトの線引きがとてもゆるい。いまでも、そうした世界観は健在なのだろう。

更新のペースが落ちると、面会のことしか書かない面会日記になりそう。それでもいいか。前回、“わたしは誰も「ボケている」とは思わない”と書いた。これは逆に、“人類みな「ボケている」と思う”と言い換えてもおなじだ。つまり、「ボケ」を特殊化したくない。認知症のお年寄りも、自分と地続きであると感覚している。むろん、そこには濃淡がある。ある程度は、全員ボケている。

というか、なにを言ってもボケにしかならんのやないか。語ることはすなわち、ボケることなのではないか。言語それ自体がボケている。「あいうえお」って、なんじゃそら。しゃべることも書くことも、アホらしくてたのしい。ときには、アホらしくてしんどい。そんなふうに思えて仕方がない。

この文字列が「伝わる/伝わらない」とか、「わかる/わからない」とか、どういうことなのだろう。おかしいな。まったくおかしい。妙ちくりんな仕組みの生きもんをやっている。このような立ち位置から見れば、介護施設で生活する祖母も存外しっかりしている。ちゃんと奇妙である。むしろ「健常」とされる人々のほうが奇妙ではないかとさえ感じる。あきらかに、なにかをごまかしている。

「まだごまかせる範囲内」を「健常」と呼ぶのかもしれない。わたし自身、ごまかして「健常」をやっている実感がある。「なにを言ってもボケにしかならん」などという気持ちはつねに、ものすごくごまかしている。ちゃんと挨拶とかできるもん。しかし腹の中では、「こんにちは」なんて言っちゃってるよコイツやべ~と思う。「こんにちは」って、なんじゃそら。 

コラムニストのナンシー関が指摘していた、語学における“「魂」の問題”をときどき思い出す。ナンシーは「英語できたらいいだろうなあ」と思う一方、「でも喋れるようになるのが怖い」という。そこには、「技術(発音)と知識(意味の解釈)だけではどうにもならないこと」がある、と。

 

「ワォ!」とか「オーマイガー!」とか「アンビリーバボゥ」といった英語を喋れるか喋れないかは技術や知識の問題ではなく、魂の問題なのだ。日本の学校教育における英語はこの「魂」についての問題を全く顧みていないのである。

『ナンシー関大全』(文藝春秋、pp.248-249)


ナンシーによれば、英語教育は「魂の改造」なのだとか。


 私が怖いのはコレである。目を丸くして肩をすくめて「ワォ!」なんて言える人間に、自分が改造されてしまうことが何よりも怖い。「ワォ!」と言えたら、人の話に「ハハァン」と相槌打つことも、言い淀んだ時には「アーン」なんちゅう独特なつなぎ方をするのもお茶の子さいさいだ。私のアイデンティティは崩壊するだろう。

同書(p.249)


恥の意識を内包した滑稽な書きぶりも含めて、鋭い指摘だと思う。わたしの場合、第一言語である日本語の「魂」もおぼつかない。「ワォ!」がおかしいように、「こんにちは」もおかしい。いまもこれを書きながら意味が剥離しかけている。ゲシュタルト崩壊に近い感覚がある。かたちを描いてはいるが、延々と上滑りしているような気がする。なにを書いているのだろう。

リアリティがない。「魂」とは、言い換えるなら「リアリティ」ではないか。現実感。「こんにちは」をリアルに話せない。挨拶ひとつでさえ、うそくさい。虚しさにとらわれてしまう。ときおり、ごまかしがきかなくなるほど異常に虚しくなる。これは前回の記事に書いた、「恥ずかしさ」とも関係する。「魂」が抜けてしまう。勇気を出して演じないといけない。わたしのアイデンティティは半分くらい崩壊している。

とはいえ深刻にはならない。笑える話。「虚しい」と「おかしい」の距離は近い。虚しさを糊塗するために、笑っている気がする。人間はおかしい。健やかなるときも、病めるときも。なにをしていても空疎で滑稽だ。

 


 

8月9日(火)

人間の写真をたくさん撮った。なぜか翌日、ものすごく落ち込んでいた。たぶん、疲れていたのだと思う。そのときは原因をアレコレ考えたが、いま(9月2日現在)ふりかえると単に疲れていただけだろう。ただ、人間にカメラを向けた経験があまりないため、精神的に「がんばり」は必要だった。積極性というか。すこしの攻撃性と言い換えてもいい。

カメラと意識との癒着を感じた。人間を撮りまくることは、ふだんとはまったくちがう意識の使い方(≒カメラの使い方)を自分に強いることだった。おもしろい経験をさせてもらったと思う。強制されないとできない。

音楽家の大友良英さんがどこかで「頼まれ仕事が好き」と語っておられたことを思い出す。自分の音楽をやっていたら大体ノイズにしかならない、こんなに不自由なことはないんだ、と。半ば受動的にやらされることで、逆説的に自由になれる。あたらしい能動性がひらける。今回、わたしもささやかながら、そんな経験ができた。ひとりで撮っていたら、大体そのへんのゴミしか目に入らないから。

人間を視界に据えることへの忌避感にも(改めて)気がついた。どうしてこんなに避けようとしているのだろう。ここにも「恥ずかしさ」が関与しているような……。ゴミならいくら撮影しても恥ずかしくない。人のいない視界は居心地がいい。

……どうやら自分のリアリティは「いる」よりも「いない」側、此岸より彼岸のほうにあるみたいだ。いつからか自分自身のことを、「いない人間」として無意識裡に規定していたのではないか。「いない」のほうがリアルに感じる。

8月9日の「がんばり」、その内実はおそらく「いない」から「いる」への態度変更にあった。この差は時間感覚のちがいとしても語ることができる。ふだんは淀んだ時間を撮っている。出会い頭に、置いていかれたものを撮る。打ち捨てられたもの。忘れられたものなど。つまり、なんらかの「あと」を撮る癖がある。人がいなくなったあと。

対して人間そのものの撮影には、リアルタイム性が求められる。基本的には、「いまここ」に自分が撮影者として居なくてはいけない。ともにいる時間を撮ることになる。多少のコミュニケーションも必要。

ごくたまに、「この人を撮りたい」と感じる。思い返すと、それもすべて時の淀んだ瞬間だ。じっと立ち尽くして動かないお爺さんとか、ホームレスや酔っぱらいなどの寝てる人、あるいは喫煙ルームでぼーっとしている人の顔とか……。ステージ上のアーティストにも、そういう瞬間を垣間見る。恍惚感というか。人間を撮るなら、恍惚の人、ちょっとした恍惚の時間を撮りたいのかもしれない。

「恍惚」もまた、我を忘れるような「いない」瞬間だろう。撮りたいのは寝てる人か、あるいはそれに近い夢遊状態の、イッてる人。バッチリ閉じた人か、バッチリ開いた人。

ここまでを踏まえて「人間を視界に据えることへの忌避感」をもうすこし丁寧に言い換えるなら、「ともにいることへの忌避感」なのだろう。捕捉し合うことへの忌避感。つまるところ、コミュニケーションを忌避している。どこかべつの場所へ行ってしまい、話が通じない、どうしようもない切断面があらわになった瞬間にだけ撮影を許してもらえる気がする。

そこにおいてはじめて親しくなれる。寝姿や恍惚の表情はふつう、親しい人にしか見せないものだ。この世にあって、この世にいないような姿。いない者同士でいたい。ざっくり言って、わたしが忌避しているものは「意識」なのだ。みんなゾンビならいいのに。そういう思考実験もあるけれど。とくになくしたいのは、自意識なのだと思う。

意識が擦り切れたような表現を好む傾向にある。なにかと。研ぎ澄まされ過ぎておかしくなってるほうでもいい(アスリート的な)。カメラを挟んで人間と向き合う経験は、自分を知るうえでほんとうにおもしろかった。多謝。


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