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日記923


「噛み合っていない」というレビューが散見される、伊藤比呂美と町田康の対談本『ふたつの波紋』(文藝春秋、2022/2)を読んだ。噛みつき合う、という意味では「噛み合っている」。とくに顕著な対立点は、「私」の置きどころ。おふたりの差はなんだろう。

 

町田 書こうと思ったのは、頼まれたからなんですよ。悪いと思うんですけどしょうがない。

伊藤 ひどいわね(笑)

町田 だってしょうがない。別に、頼まれたらなんでもやるわけじゃないですけれど。 (p.74)


第2章「歩き続ける男」の正体――種田山頭火、の末尾。山頭火について書いたのは、頼まれたからだと。対談全体をとおして、町田の「私」イメージはこんな感じで、あとからぼちぼちついてくる。文体とは「結果」ではないか、ともおっしゃる(p.131)。結果的にそうなる「私」。しょうがない「私」。

対して、伊藤の「私」は先立つ。予見的というか。詩人らしい兆候性を湛えたイメージ。あらゆる場所に兆す「私」について語っているように思えた。後か、先か。ポストディクション(あとづけ再構成)か、プレディクション(予見的構成)か。ふたりの対立は、そんなふうに整理できる。気がする。

「自分」をめぐって、お互いに「でも」と返しつづける象徴的な部分をすこし長めに引いてみる。「自分」が希薄で、それでいいんじゃないかという町田に対する伊藤の返答から。

 

伊藤 でも私には、強く「自分」というものがあるから……とか言ってると、町田さんに「伊藤さんはまた自分にばっかりこだわる!」って怒られるんだろうな(笑)。こう説明すると自分にこだわっているいやぁな女に聞こえますけど、ま、それでもいいんですけど、そのとおりなんですけど、この私の「自分」と、町田さんの言ってる自分にこだわってない「自分」とは全然違うものなのか?

町田 伊藤さんは、自己の文学を揺るぎないものとして確立したいんですか?

伊藤 強いて言えば、自分の言葉で何かをコントロールしたいという気持ちはありますね。例えば、翻訳の仕事をしている時に、やっぱり自分の言葉で表現したくなっちゃうんですよ。

町田 自分の言葉に置き換える、みたいな感じですか?

伊藤 そうそう、自分の言葉を使いたい。わけの分からない言葉で、って外国語や古文なんですが、何か読むと、「私だったらこう書く」みたいに思います。でも、実際にやると……これがなかなか難しい。

町田 でも、自分の言葉というのはあくまで素材やパーツであって、ある意味「組み合わせ」でしかないですよね。別に言葉を一から作っているわけじゃないから。要するに、このシャツにはこのジャケットを組み合わせると素敵なコーディネートになります、みたいな話じゃないですか。

伊藤 でも、自分の言葉って、自分から出てきた言葉には変わりないじゃないですか。

町田 でも、それが自分だけの言葉だったら誰にも通じないですからね。

伊藤 それは分かってるんだってば! もう偉そうに(笑)。いいわよ、面白いからもっと言って。 (pp.43-45)


「組み合わせ」という発言からは、あとづけ再構成の「私」イメージがうかがえる。受けて、立つ「私」(つまり、カウンター型)。対して「自分の言葉で何かをコントロールしたい」という発言からは、先陣を切って飛び出すような心情が読み取れる。「私ならこっちへ行く」と。ただ、伊藤が述べる「自分の言葉」は同語反復的で閉じているようにも思える。「自分の言葉って、自分から出てきた言葉には変わりない」。「自分は自分」という同語反復。

「自分だけの言葉だったら誰にも通じない」。この指摘に触れて、渡邊十絲子の『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書、2013)を思い出した。詩のことばは、通じにくい。「孤独のためのことばだ」というお話。


 人はだれでも孤独であり、また孤独であるべきだ。けれども人はついだれかのこころの中に自分の存在を押しこみたがる。相手にとって自分というものが「意味」をもつと信じたいのだ。名前のある、ほかのだれとも異なる、識別してもらえる一個人でありたいのだ。
 そう思うとき人は、人と通じる回路としてのことばをもたなければならない。だれにとってもぶれのない意味内容をもち、言った人と聞いた人が過不足なく感情や価値観を共有できるような、最大公約数のようなことばを。
 しかし、だれにでも通じることばは、深みというものをもたない。「通じる」度合いが高ければ高いほど、そのことばは記号化し、符牒のようなものになっていく。
 詩のことばは、そうしたことばの対極にある、孤独のためのことばだ。


たぶん、町田康のスタンスでは「みんな」が先にあり「私」があとから繰り出される。逆に、伊藤比呂美のスタンスでは孤独が先んじる。ひとりの「私」が先にあり「みんな」があとから生成される。まず「みんな」と対峙するか、まず「ひとり」と対峙するか。創作スタンスの違いからくる溝なのだと思う。手順の違い、というか。「普通」から入るか、「特殊」から入るか。

 


 

第3章で、町田がふと「伊藤さん、言葉に対する信仰がありませんか」と指摘する。読みながら抱いていた疑問をそのままぶつけてもらえて、思わず「そこっすよ」と口走ってしまった(読書しながら独り言が出るタイプ)。

「信」を語る人はしばしば、同語反復的になる。「こうだからこうなのだ」と、そこから先はもう話が通じなくなってしまう。「私は私だから」みたいな。「俺はこういう人間だから」みたいな。「A=A」をぐるぐる回し始める。悪いことではない。コミュニケーションが行き詰まる領域は誰にでもある。「ここから先は譲らない」という境界の露出。それぞれの守るべき、たいせつな境界線なのだと思う。そこを侵されると、自分が自分ではなくなってしまうような恐怖を感じる領域がある。


町田 これまでの対談で、ずっと気になっていることがあります。伊藤さんが「言葉」と言う時、そこに言葉というものに対する無条件で、絶対的な信頼というか、信仰みたいなものがあるように感じられるんです。で、それが僕には少々疑わしく思える。果たして言葉というものに、そんな無条件に帰依してしまっていいのか? それで、言葉が本来持つべき機能を文学という形で果たすことができるのだろうか? と。

伊藤 あら、出来ますよ。 (p.107)


おそらく町田にとっては、こうした伊藤の端的な返答が不安であり、伊藤にとっては町田の深い疑念が「なんなの?」って感じなのだと思う。「やっぱり私たちは、飛翔能力があるから詩人なのであって」と述べるように(p.12)、伊藤比呂美は飛んでしまえる。つまり、信じてしまえる。何かを信じるためには、飛翔能力が不可欠であるとわたしは考える。理屈の外側に飛び出る能力。誰にでもある能力だけれど、詩人はきっとその感度が高い。

伊藤の「飛翔能力」は植物や古典翻訳への態度にもあらわれている。そこでは同時に、町田の「深い疑念」もあらわになる。


伊藤 (……)っていうか、町田さんは植物には意味がないと思ってる?

町田 いや、あるにせよないにせよ、そんなん人間には分からないじゃないですか。

伊藤 そうか、そのへんの感覚が根本的に違うんだな。植物にも何か、あるんですよ。たぶん私、植物への対し方というのが、ちょっと過剰なのかもしれない。私は植物とは違う生き方をしているけど、ちゃんと分かる、みたいな感じ。同じ生を生きてる。彼らの言葉や気持ちが分かるとか、そういうことではない。もっと感覚的なもの。つまり、「意味」というものに依拠していないんですね。 (p.81)


伊藤は「植物のことが感覚的に分かる」と言い、町田は「そんなん人間には分からない」と言う。これと同型のやりとりが古典の翻訳に関しても行われている。ほかにも注意して探せば随所に見られるかもしれない。

 

町田 ただ、翻訳に関しては原文があるでしょう? どういう風に声を、言葉を出すかっていう時に、その時代を生きたわけではない僕らは、原文を本当の意味で理解できるわけではない。それが、例えばものすごく昔の曲の楽譜だったとしたら、当時の楽器もないわけですから、昔とまったく同じ「正しい音」を出すことはあり得ない。

伊藤 町田さんは「理解できるわけがない」と言い切りますけど、私は「そうかな?」と思うんですよね。 (p.161)


ここも植物と似ていて、あいだを埋める論理上の「理解」と感覚的(飛翔的)な「理解」の差なのではないか。おなじ「理解」という語彙で、まったくべつの話をしている。町田康は過去との「あいだ」を飛ばずに「(理屈では)分からない」として踏ん張る。伊藤比呂美は「あいだ」をすり抜けて、行ってしまう。あるいは、行けると信じている。理屈ではなく。

この点に関して、「飛翔能力」を語るくだりは示唆的だと思う。

 

町田 詩人には時間軸や時間差みたいな感覚がないように思える時があるのですが、どうなんでしょう。物事を見る時、常に「瞬間」か「永遠」しか見ていない感じがあって。例えば、何かの事件があったとします。小説なら、事件発生から真相に至るまでの間をくどくどと書くわけですが、詩では、その過程が改行の藻屑となっているように思えます。

伊藤 その過程の部分を書いてしまうと、詩ではなくなってしまいますからね。やっぱり私たちは、飛翔能力があるから詩人なのであって、それをなくしてしまったら飛べない鳥になってしまう。 (pp.11-12)


小説は時間の連続性を書くが、詩はそれが飛んでしまう。ここを読んだとき、谷川俊太郎の「夕焼け」という詩を思い浮かべた。『世間知ラズ』(思潮社、1993)より、一部を引く。


知らず知らずのうちに自分の詩に感動していることがある
詩は人にひそむ叙情を煽る
ほとんど厚顔無恥と言っていいほどに

「文学にとって最も重要な本来の目的のひとつは
道徳的な問題を提起することだ」とソール・ベローは言っているそうだが
詩が無意識に目指す真理は小説とちがって
連続した時間よりも瞬間に属しているんじゃないか

だが自分の詩を読み返しながら思うことがある
こんなふうに書いちゃいけないと
一日は夕焼けだけで成り立っているんじゃないから
その前で立ちつくすだけでは生きていけないのだから
それがどんなに美しかろうとも


町田康と、おおよそ似たような分析をしている。内省的な詩。わたしは詩を好んで読む人間だけれど、詩というものがいつまでたっても恥ずかしい。半ば、「厚顔無恥」をたのしんでいるような意地の悪いところがある。詩を読むことで、自分も厚顔無恥になれる。ふだん、なかなか厚顔無恥にはなれないから。「恥」は「飛翔」とも関係する。ナイーブに信じてしまう恥ずかしさ。

「夕焼け」のような反省意識があれば、ふつうに読める。散文に近い、飛翔しない詩なら。自分の標準的な態度がこんな感じだからだろう。嫌気がさすほどまじめである。

「まじめさ」に関連して、『ふたつの波紋』から耳が痛いと思った部分を引いて終わりたい。「体裁の整ったものはおもろない」みたいな話。

 

町田 まず「私」というものがあるやないですか。で、それは、大抵矛盾を抱えたどうしようもないもんですよね。そういうどうしようもなさを形作る条件を、いくつか捨てて単純化して、「こうすれば説明つきますよね」とか、「こうすれば理屈の体裁が整いますよね」というものに整える。ある程度、合理的に考える、と言い換えてもいいかもしれません。もともと「私」も、私の考えることも不合理なものなんですけど、それをある程度合理的な形に整えて、こういうふうに考えたら一応破綻なく「自分」というものが収まりますよね、と言葉でもって「とりあえず」の落とし所を作る感じでしょうか。でも、そうすると、往々にしておもろないものが出来上がるわけですけど。 (pp.99-100)

 

わたしは「丸く収めたい欲」が強い。伊藤比呂美と町田康の齟齬に満ちたおもしろい対談も、まさに「こうすれば説明つきますよね」という感じで丸めこもうとしてしまう。両親が喧嘩ばかりしている家庭で育ったせいか、むかしから調停したがる癖がある。かなしい英才教育。他人の喧嘩はおもしろい。しかし何度もつづくと飽きるし、つらくもなる。たいていおなじ話の繰り返しだから(この対談も然り)。

『ふたつの波紋』は、人によってまったく違ったふうに読める本だと思う。わたしはおふたりの差を測るように読んだけれど、感想を検索してみると町田康に移入して読む人もいれば伊藤比呂美に移入して読む人もいて、どちらに寄るかで見える景色が異なっている。読み方で、自分の資質がわかるかもしれない。「あなたはどう思う?」と否が応でも投げかけてくる、いい本でした。おもろないまとめ!


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