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日記926


「あなたが苦しめてくれれば私は苦しみに耐えてゆける」(二階堂奥歯『八本脚の蝶』ポプラ社、pp.155-156)。たとえば「みんな苦しいんだ」という横並びの語り口と、「あなたがわたしを苦しめている」という個別の語り口だったら、どちらが慰めになるだろうか。あるいは、どちらがエロいだろうか。

わたしはどうせなら「あなた」に苦しめてほしいと思う。「みんな」より、「あなた」がいい。ところで、「あなた」とはなにか。国葬のスピーチでも頻出していて、すこし気になった。虚空の安倍氏に対して、「あなた」と呼びかける。この二人称には、特異な空虚さがある。



書きながら、これを想起した。去年の8月か。リツイートしたのち、引かれている調査報告のpdfも紙に印刷して読んだ記憶がある。

米澤陽子(2016)「二人称代名詞「あなた」に関する調査報告」『日本語教育』163 

「あなた」には親密な響きと、よそよそしい響きの両極がある。使用文脈によって様変わりする。米澤氏は報告のなかで、“現代語の「あなた」はその本質が無色なのだ”と書く。「無色」という概念は、不特定多数を指す「あなた」について国語学者の森田良行が提起したもの。米澤報告の文脈ではこれを「社会関係を表示せず相手を指す言葉」と再定義して拡張的に用いている。

日本語のコミュニケーションでは社会関係の表示(役割の表示)が基本にある。しかし、「あなた」にはそれが認められないのだとか。たしかに、逸脱的な感じは受ける。無色。無職でもよさげ。異邦性、と言い換えてもよいのかもしれない。特殊性というか。ともかく社会関係の外側、役割の外側に「あなた」の位置がある。「あなた」は良くも悪くも、関係を特殊化するのだろう。

「異邦性」ということばが浮かんだのは、デヴィ夫人が「あなた」を多用するから。サンプル1の連想に過ぎないけれど、全員を十把ひと絡げに「あなた」と呼ぶ大味な話法によって彼女は役にとらわれない「異邦の人」としての存在感を示している(ような気がする)。見ている者に村社会的なしがらみを感じさせない。強いて言えば、デヴィ夫人には「デヴィ夫人」という役割しかない。「デヴィ夫人」の肩書をもって、その場に君臨するだけでいい。

冒頭に引いた二階堂奥歯の日記にも、「あなた」がよく登場する。この二人称が全体を恋文のような趣にしている。愛しい人を想うか、あるいは「主よ!」と神に語りかけるかのような「あなた」の使い方。歌人の穂村弘は文庫版のあとがきに「本書は日記であると同時に、詩集、アンソロジー、書評集、遺書、そしてこの世界への恋文でもある」と書く。

デヴィ夫人の「あなた」は不特定多数に使用される。戯画的にイメージするなら「雑魚が!」みたいな調子かもしれない。対して、二階堂奥歯の「あなた」は代替不可能な一者を指しているように思える。彼女の世界観と一体の「あなた」。

あるいは、この世界と対峙するための「あなた」。あなたにわたしの苦しみを、この世界を担ってほしい。そのような「あなた」がいてくれるなら、どんなによかろうとわたしも夢想する。ほかでもないあなたに課される苦しみなら、耐えてゆける。恋する人の、ふしぎな感覚。

めちゃくちゃ卑俗にたとえるなら、新垣結衣のうんこなら食える!みたいな感覚と近いのかも。星野源のうんこでもいい。もちろん、うんこ一般は食えたものではない。しかし、あなたのうんこならいける。世界でひとつだけのうんこなら。

絶対的な「あなた」も、誰でもない無名の「あなた」も、空虚さにおいては似ている。「無色」は言い得て妙。盲目的というか、総じて観念的な響きがある。空虚な中心。「あなた」はいつも、ままならない。

「ひとつしかないもの」と「不特定多数のもの」、どちらもとらえがたい。今日という日は無数の人々が経験するが、わたしの今日はひとつしかない。かといって「ひとつしかない今日」を、そう認識して生きているかといえばそんなこともない。「またね」と言い合って、なんとなく過ごす。

日々は絶対的に不可逆で二度と戻らない。それを正視できるか。わたしは絶対的にひとりで、ほかのどこにもいない。それを芯から認められるか。ことばでは言える。ひとりだ。でも、実感としてわからない。「絶対」は、あまりにもおそろしく正視に耐えないのだ。

逆に、相対化が過ぎても底知れずおそろしいため、ほどほどのスケールで手を打つ。「またね」と言い合えるように。そんなに何回もないけど、最後でもないよ。それは今日ではない。わたしはわたしでありながら、そんなにわたしでもないし。大丈夫。あなたもきっと、そんなにあなたではない。

うーむ、なんの話? いつも、別れの論理を探し始める癖がある。つつがなく、いなくなりたい。安心して、それと知らないまま。誰にも、自分自身にさえ悟らせず、盲いたまま。


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