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日記927

 

10月9日(日)

新宿から渋谷まで歩く。雨のなか、50分ほどかけて「RUBY ROOM」というライブハウスへ。初めて行く場所と思いこんでいたが、平成女学園の看板で記憶がよみがえった。ああ、ここか。なるほど。前に来たときも同じバンドを見た。もらすとしずむ。

このバンドと自分との関係をすこし整理しておきたい。そもそものきっかけはSNSのnoteだった。noteが始まって間もないころだったと思う。整備される前の、ほとんど空き地みたいな状態のとき。適当にあそんでいるおもしろそうな人を適当にフォローしていた。そのなかのひとつが「もらすとしずむ」だった。

noteの始まりは8年前(2014年4月)、もらすは結成7年だそうなので、たぶん最初期から見ている。なんとなく見ている。じつになんとなく。もらす側からしても、「こいつなんとなくいるなー」といった存在なのではないかと思う。

追っかけたいとか、ファンだからとか、それほどの熱意はない(申し訳ない!)。でも、イベントがあれば行く。なんとなく。よくわからないけれどなんか居着いてしまった、妖怪みたいなやつだと思ってもらいたい。座敷わらしとか、豆腐小僧とか、そういう無害な類の。


 

しかし「なんとなく」ながら、一方的にへんな縁を感じてもいる。というのも、もらすとしずむを知るより前に、主要メンバーである10さんのことは認識していたのだ。

それはnoteもまだ始まっていない、8年以上前。「残響塾」というサイトの文章をわたしは好んで読んでいた。「残響塾」はもうひとつ、残響レコードという音楽レーベルが運営するワークショップ的な何かの名前でもあり、10さんはこちらの関係者だった。

名前を同じくするふたつの「残響塾」は、たまたま名前が同じであるだけで(たぶん)縁もゆかりもない。文章の残響塾が好きなわたしにとって、残響レコードのほうはたいへん失礼ながら「じゃないほう」だった。とはいえ「これとこれは関係ないんだな」と詳細を確認した際、10さんの存在は視界に入っていた。「関係ない」と見切りをつけた側の人と、いずれ関係しまくることになるなんて、予想だにしない。

なんであれ、確認はだいじです。

まとめると、まずnote経由で「もらすとしずむ」なるバンドを知り、のちにそのメンバーである10さんが「じゃないほう残響塾」近辺の人だとわかって、ごく個人的に「この人、だいぶ前から知ってたな……。へんな縁だ!」と感じるに至ると。

そんな、わたし以外の人間にとってはクソどうでもいい経緯がある。自分では、おもしろい偶然だと思う。ちいさな偶然の因果を聞き届けるように、もらすとしずむの活動を追っている面もある。


 

10月9日に戻る。写真は、お笑い芸人のハクション中西さん。3回ほど、合間合間に登場していた。ステージに立つ前、致死量の半分ほどのアルコールを摂取したそうです。

ぼーっといちばん前に突っ立っていたせいで、いわゆる「客いじり」の対象になった。なんてことのない軽いやりとり。ほんの束の間。でも、かつてなく話しやすかった。なんでも拾ってもらえそう。会場全体の雰囲気の良さのおかげもあったかもしれない。

ふりかえって思うに、構造として壇上の人が「もっとも誤っている人間」だからプレッシャーがなかったのだと思う。どう対応しようが、この人より誤ることはない。教育の過程で刷り込まれた教師と生徒の関係では、たいてい真逆だ。教師は正解を独占する。芸人は誤りを独占する。

ライブ終盤、ハクション氏は「トロフィー・ハラスメント」について力説していた。どんな内容だったかは覚えていない。この単語から個人的に連想したのは村上春樹とノーベル文学賞の関係だった。噂レベルの情報で何年も受賞が期待され、風物詩のように10月がくるたび「受賞ならず」と報道される。ご本人からすれば、「マジで知らんわ!」って話だろう。ちなみにことしは、フランスのアニー・エルノーが選ばれました。めでたしめでたし。



あとは写真だけでお茶を濁したい。ことばが浮かばない。めっちゃよかったです。音源も出ています。各種配信で聞けます。「(HED)」のジャケットは、わしがつくりました。

 




そうだ。

Podcast番組「よあそびくらぶ」の公開収録もあった。




「嫁になにを求めてるの?」というRinaQさんの質問に「安心」と即答する10さん。この場面が深く印象に残っている。自分は誰かに安心を求めたことがあるだろうか? 人間がそばにいて「安心できる」と感じたことがない。親族であれ、相手が人間である以上は身構えてしまう。そのせいか、人間を超越した何かのほうへ傾斜しがちである。神とか仏とか……。

RinaQさんが「菩薩」という単語を出したのも、似たような飛躍の仕方なのではないか。わたしほど極端ではないにせよ。求めるものは、俗世からの超越。ストレートに解釈するとそうなる。しかし「菩薩」の裏に具体的な人物が潜んでいる可能性もあるので、わからない。

「RinaQは自分を強く信じている」という10さんの指摘があった。それでいうと、10さんは他人を信じることができる。そうでなければ、わたしのような得体の知れないやつに音源のジャケットを依頼しないだろう。頼んだ側からすれば、何が出るかわからない不気味なくじを引くようなものではないか。どんなものが出来上がるのか、手を動かしはじめるまで自分でもまったくわからなかった。「あそび」として起用してくれたのだと感謝している。たのしかったです。

 

 

もらすのあとNot Elite Clubの演奏時、ちょっとだけ眩暈に襲われてうしろに下がった。もともと頭がくらくらしやすいタイプなので、演奏のせいではない。いつものことです。音の洪水に見舞われ、洗車されているような気分だった。くらくらしながらもうひとつ想起したのは、MRIのサウンド。




改めて聴くと似ていない。でもなぜかMRIに入ったときの記憶がよみがえってきた。あの場にいたなかで「私もMRIを思い出しました!」という人はいないだろう。いたら「なんで?」と思う。とはいえ不適切な連想でもない。MRIの作動音は音楽的にも一部の好事家に高く評価されている。いい音楽同士のつながりなのです。MRIも立派なアートです。



 

ステージ終了後、依頼されて集合写真を撮った。カメラの設定をあたふたいじりながら壇上に上がり2枚。指示ゼロでもばっちり並んで、みなさんすばらしかったです。表情も。そして撮った人はちゃんと写っていない。でもいる。いないけどいる。幽霊みたいなポジション。

観光地をふらついているとたまに、知らない人から「撮ってください」と頼まれる。そんな役割がむかしからとても好き。どこの誰でもかまわない透明な、でも意外と重要な役。不特定多数のひとり。思い出に知らない人の視線が織り込まれる。幻のもうひとり。いまどきは自撮り棒で済んじゃうのかもしれない。撮る人も写せる。スマホが幻のもうひとりになる。

いずれにせよ、見られないと見ることができない。「見る」という行為の鏡像のような関係は魅惑的だ。人間のまわりにはつねに、どこかに、「幻のもうひとり」が存在している。

 

この日、ひさしぶりの方と何人かお会いできてうれしかった。ちょっとご挨拶するだけでも、じゅうぶん。写真とコラージュを提供したフォトブックも素敵でした。細かい字の長い文章が読めて満足。短いアンサーもよかった。見ているうちに自分でもつくりたくなる。しかし、写真を選ぶってむずかしい。大量にストックがあって途方に暮れる。鋭い批評眼でシャッと選ぶことができればよいのだが、そんな眼は持ち合わせていない。地道に「あーでもないこーでもない」と時間をかけて考えたい。

 



ことしの春頃から、低い音の耳鳴りがやまなかった。ライブ後の数日間それが消えて、ほんとうに頭の中を洗浄した心地だった。すっきり。ショック療法的な、トラブルをさらなるトラブルで解決するような「すっきり」なのだろうけれど、ある程度まで年齢を重ねるともう病をべつの病で乗りきるしかなくなってくるのではないか。病と病を戦わせまくって、優勝した病がめでたく死因になる。みたいな未来のイメージがある。死に際には頂上決戦がVIP席で観戦できる。明るい未来。できるだけ、おもしろい感じに壊れていこう。そんなネガティブだかポジティブだかわからない決意を新たにした。


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