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日記932


 

十一月十日 日曜日 ストックホルム

 アンドリューシャの件に関しては、いまのところなんの進展もない。明日、パルメと二度目の会見がある。ローマではラリーサと一緒に外務省に行った。われわれの力になりたいという話だった。だがどうやって? 上院議員で政府に強力なコネを持つ弁護士のジーノ・ジューニのところに行った。アンドレオッティ〔元首相〕は彼に、一週間待ってほしい、そうしたら家族を招待するために必要な措置をなんとか考えるから、と言ったそうだ。モスクワからは悪い知らせが届く。ひどい毎日、ひどい年だ。神よ、見捨てないでください!

 

アンドレイ・タルコフスキー『タルコフスキー日記 殉教録』(鴻英良/佐々洋子訳、キネマ旬報社、p.545)より。

1985年11月10日の日記。昨日は「Ⅱ」から引いた。ならばと今日は1冊目。タルコフスキーの日記は、2冊とも古書市場で高騰しているみたいだ。わたしが買った古本屋では、2冊セットで5,000円だった。それなりに高いが定価よりは安い。何年前だったか……。いまは日本の古本屋とamazonで見るかぎり1冊7,000円以上の値がついている。

「アンドリューシャ」とは息子のアレクサンドル・タルコフスキーのこと。アンドレイはソ連から西側に亡命したが、息子は故国にとどまっていた。そうした状況のなか、いろいろ言ってる日記(ひどいまとめ)。「ひどい毎日、ひどい年だ。神よ、見捨てないでください!」。アンドレイ・タルコフスキーはこの翌年の86年12月、54歳で亡くなっている。


11月10日(木)

自分の日記はべつに書かなくてもいいか、という気もする。電車内、向かいに座る若い男性が『世界を変える思考力を養う オックスフォードの教え方』(朝日新聞出版)という本を読んでいた。世界が変わるといいね、と思った。横にいたおじさんはYouTubeでレクサスに関する番組をずーっと見ていた。レクサスいっぱい買えるといいね、と思った。

「自分の日記」といっても、自分のことは避けがちである。たまたま出会う他者のことを書く。そのほうが偶然性に満ちていておもしろい。共立食品の「ハロウィン手作りお菓子コンテスト」というページを眺めている年配のおじさんがいて、応募したのだろうか? と想像する。あるいは、知り合いの応募作が載っているのか。いずれにしろ優勝するといいね、と思った。

共立食品が「ハロウィン手作りお菓子コンテスト」を開催しているなんて、自分では知ろうとも思わない。YouTubeでレクサスを検索することも、『世界を変える~』を手に取ることもおそらくないだろう。ランダムで他者と遭遇しまくる電車内は、手が届かない情報に満ちている。

すべての人が、わたしの知らないことを知っている。言い換えれば、異なる体をもって異なる人生を生きている。つまらない人間なんて、この世にひとりもいない。好奇心さえ枯らさなければ(興味深いが、近づきたくない人間は無数にいる)。ちら見して、お礼に「みんな幸あれ」と願う。「平和ボケ」とはこのような頭の中身を指すのだろうか。神よ、見捨てないでください。

 

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