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日記933


二〇〇二年一一月一一日(月)

津原泰水「玄い森の底から」、「夜のジャミラ」、「脛骨」、「天使解体」、「約束」。
今ふかく吸い込む息と共に私の血管を巡る言葉。指先がどくどくと脈打つ、身体の芯から先端まで届いて私に混ざる物語。まばたきで起こる風も心音も言葉になるほどに物語を飲み込め私のからだ。この世界のこの私ではなかった無数の私たち、聞いて。
私が読んだ。
この物語が届いたのは私のところだった。
合わせ鏡に映る私どこまでも連なるの視野の限りその一人一人聞いて。
私が読んだ。
私に届いた。
あなた達の分、私が読む。あなた達の代わりに。机に向かう私の周りにはもう音はないのです。違う、ないわけではないの。遠い耳鳴り。
頁を捲る指白い。爪の先まで届けこの言葉たち。私が存在したこの世界にこの物語が存在し、そしてそれらは出会った。
存在するのは捲られる頁と読みとる私。
ではなくて、物語の生成。世界がはじまるように。


二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社、pp.242-243)より。

友人とこっそり始めた読書会のなかで、さいきん再読した本。以前(10年前くらい)に読んだときとは感じ方が変わった。初読のとき、二階堂奥歯は年上のお姉さんだった。いまのわたしは気づけば、この人より長く生きている。

津原泰水も亡くなっていたことを、今日たまたま知る。図書館の追悼特集の棚に名前があった。そして家に帰り『八本脚の蝶』をひらいたら、ちょうど11月11日にこの記述。ということで引いた。

写しながら、気恥ずかしさを覚える。陶酔的で、だからこそある種の人にはたまらない本なのかもしれない。自分としては距離をとってしまう。でも嫌ではない。この人の文章には、異様な冷静さも備わっている。読めばおわかりの通り、上記の文は始めから終わりまでリズムがコントロールされていて、心地よい。我を忘れてはいない。隅々まで意識が張り巡らされている。

そしてなにより、客観的な一行がある。「存在するのは捲られる頁と読み取る私」。ここでいったん引いてから、「ではなくて~」とまたすぐに戻る。読みながらなんとなく、ものすごく熱いものと、ものすごく冷たいものが同居している感じを受ける。同居して「ジュワ~」ってなってる。「ジュワ~」って。

日記の終盤、「君は人形だ。ふりだけでいい。生きているふりをするだけでいい。」(p.385)と熱い励ましのメッセージ受け、二階堂奥歯は「うまく、できるかな。/だってそれは結局、人間のふりをする人形のふりをすること。」と論理的に展開している。この切り返し方と「存在するのは捲られる頁と読みとる私」という一行の、ふと冷めてしまう感じは似ている。

似た感触の部分は探せば他にもありそう。ふと「虚」を覗き見るような記述。気づいてしまう。だからこそ、彼女にとって物語はまもる対象だった。それはあまりにも脆いから。文字通り、必死でまもらなければならなかった。

なんかこう、物事を見透かす冷厳さと、盲目的な情熱とが綯い交ぜになって「ジュワ~」みたいな。見たいものと見たくないものが衝突して「ジュワ~」みたいな。頭の悪い感想。とかく相矛盾する要素が入り乱れて「ジュワ~」っとしている、『八本脚の蝶』は全体的にそんな日記だと思う。

読みながら、二項対立の補助線がいくつも思い浮かぶ。分析哲学と大陸哲学。認知行動療法と力動的精神療法。社会構築主義と本質主義。複数性と独在性。相対と絶対。疑心と信心。主体と客体。などなどが「ジュワ~」っていう……。

『八本脚の蝶』の末尾には生前の著者と親交があった13名の寄稿文が載っている。久しぶりに再読したなかで、西崎憲氏の文章に「あっ」と思った。読書会で言えなかったため、拾遺として、ここにこっそり書いておく。

 

 頭がよくなりたいんです、と彼女は言ったと思う。その頃とみに頭のよさに自信がなくなっていた私は、頭がいいから幸福に生きられるとはかぎらないだろう、と応じた。彼女はそれにたいして、頭がよくなければ眼の前の困難がどんな種類のものなのか見極めて乗り越えていくことは難しいのではないか、と返答したかと思う。p.443


なんてことのない会話なのだけれど、自分のなかでは意味が変化していた。というのも、数年前に似たような会話を交わした友人がいたから。彼もまた「頭がよくなりたい」と言っていた。多くの人が抱く、月並みな願望の吐露かもしれない。わたしから見ると、じゅうぶん彼は頭がよかった。その彼もまた、みずから命を絶ってしまった。

ふりまわされているようでいて、すべてがコントロールされているようでもある。そんな人だった。『八本脚の蝶』と性格が似ていると、勝手に思う。この日記も翻弄されているようでいて、すべてが運命だと言わんばかりに終わる。書いたとおりに。仰せのとおりになる。貫徹し過ぎている。

本の感想として、「ジュワ~」などと間の抜けたことは絶対に書かないと思う。彼も彼女も。「ジュワ~」とか、みんなもっと適当なことを言ってほしい。そんな間の抜けた読後の願いを得た。10年前のわたしはもっとまじめだった。『八本脚の蝶』の感想で、「ジュワ~」なんて思いつきもしない。10年経って、なぜか「ジュワ~」を連呼するおじさんになっていた。そのほうがラクだからだろう。

 

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