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日記935



 十一月十三日(木) 快晴
 昨夜私は風邪をひいたらしい。頭が痛く胸も痛い。昨日入れた色硝子に陽があたっている。
 暖炉に赤く陽があたる。薪の入っている大籠には緑色の陽が。鏡にうつる私の顔はコバルト色。庭の土も、赤、青、緑の陽があたっている。色盲になったようだ。
 焚火の灰を畑にいれる。大工の置いていったゴミをもやす。梅の木をまわって、一本ずつ、根本に肥しをいれる。今日は暖かい。
 隣りからバナナとにんじんと大根をもらう。
 昼 パン、スープ、ハンバークステーキ、サラダ。
 主人の散歩について大岡さんの家の方まで行った。
 夕方の支度をしておいてから門まで上ると、西の空は火事のように赤く、西の山々は黒い切り抜き絵のようだ。富士山の大沢くずれのあたりがバラ色に暮れ残っている。鎌のような下弦の月が浮んでいる。
 ロシア旅行のとき、中央アジアのどの町だったか、宿の夕食のあと手持不沙汰の皆は一緒に散歩に出た。水たまりのような池のところで道はゆきどまっていたので、途方に暮れて、水たまりのような池の前で皆で佇っていたっけ。そのとき、これと同じ月が浮んでいた。「琵琶湖の北の方、湖北というんですか。あすこに似ていません?」すると皆、自分が湖北に行ったときの話を口々にしはじめた。中央アジアにいることなんか、この町の景色のことなんかそっちのけで。
 夜 塩鮭茶漬(主人)、牛乳とのりまき餅(百合子)。
 御飯が終ったころ、隣りのおばあさんがシメサバを持ってきてくれる。それをまた別に食べる。おいしい。隣りのおじいさんとおばあさんは、自分が作ったものを自分が勝手に持ってくることになっているらしい。おじいさんは畑の大根とかにんじんとか。自分の作ってみた佃煮風の食べものを。おばあさんは自分の作ったシメサバとかおすしを。それは勝手にやっているらしいから、一日に三度位たて続けに色々と貰ってしまうこともある。
 今夜も暖かい。
 テレビでキックボクシングをみる。福島三四郎対ピマンメクの試合。ぺちゃぺちゃとしゃべる解説者とアナウンサーがうるさい。
 主人、キックをみてからねる。ねる前、急に「明日は天気がわるくなるといってたから、明日の朝早く帰る」と言う。
 食物ののこりを始末する。


武田百合子『富士日記(下)』(中公文庫、pp.119-121)


昭和四十四年(1969年)の11月13日。

 

何回も読みたくなる。
いい……。

 

 

2022年11月13日(日)

暖かく、風の強い日だった。夕方から雨。

大型スーパーで買い物。到着してトイレに立ち寄ると、店員さんが用を足していた。「いらっしゃいませ」とは言われなかった。言われたらこわい。トイレ内では関係がチャラになる。肩書抜きの人間同士。それでいい。ちょっとしたアジールのような、自由領域なのだ。トイレから出れば店員は店員に、客は客に戻る。

昼食、家カレー。

食べてからすぐに図書館へ。雨が降らないうちに。11月20日までの日記を用意する。なんでこんなことを始めたのかと、半ば自分を訝りながら。

「日記」と名のつく本はたくさんあるが、日付のないフェイク日記も多い。比喩的な意味で「日記」としているのだろう。「私はこんな日常を過ごしています」ぐらいの意味。逆に「日記」と銘打っていない隠れ日記もある。一昨日の『八本脚の蝶』とか。先日、書店でなんとなく手に取ったハインリヒ・ハラー『石器時代への旅』(河出書房新社)も、日記形式の記述だった。思わず「日記じゃん!」と興奮した覚えがある。ただ、11月はなかった。1月から6月くらいまでだったかな(うろ覚え)。

そう、日記本といっても365日すべての日が記述されているわけではない。そんな本はむしろめずらしい。ほとんどの日記は飛び飛び。なので、予定を詰めていくことが微妙にむずかしい。この微妙なむずかしさがけっこう楽しい。ゲーム性がある。あたらしいゲームを始めた感覚。

毎日、異なる日記本から、その日の日記を引用するゲーム。1年つづけば賞金100万円。もらえたらいいなと夢想しながらやる。ライバルはゆたぼんの日本一周。

 

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