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日記936


今日の日記。

笠原嘉 編『ユキの日記 病める少女の20年』(みすず書房)より。

裏表紙の概要を引く。

 「ある年、母に伴われて病院をおとずれた一人の婦人に会った。小柄で、やせこけていて、化粧気のない、年のわりに老けてみえる、少し頭の大きめの彼女は、私に決して逆らいはしなかったものの、ついに一言も心の底から発することのないまま逝った。いつも私の及びうる距離の少しばかり向うに立っていて、大きな眼でまたたきもせず私の言動をじっと見つめ、私に少なからず職業的無力感を覚えさせながら去っていった。十数年前のことである」(編者)

 並々ならぬ文才の持主である一人の少女が八歳のときふとしたことから日記をつけはじめる。それから間もなく喘息という宿痾をえ、青春のほとんどを病床ですごさねばならなくなった彼女は、その眼をもっぱら自己と家族の内面へと向けだす。そして日々の克明な記録はノート六十冊分にも達する。しかし不幸にして彼女は心を病む。二十歳のときである。その後まもなく彼女は筆を折り、再び筆をとらず、数年後心不全のため世を去る。
 これは最後に主治医となった一人の医師が御家族の援助をえておこなった六十冊からの抜粋である。狂的世界の心象を描いた手記や日記は数多い。しかし心の病をうるはるか以前からの長い過程を、これほど入念に書きこんだ記録は知られていない。健康と病気をへだてる隔壁の微妙さ、しかもそれが行きつもどりつしながら越えられていく様子、それらをわれわれは感動をもってここに読みとることができよう。なお、これは大きくなったらぜひ作家になりたいと叫んでいた彼女が、この世にのこした唯一の作品であり、したがってこの作家未然の作家の病跡学(パトグラフィー)のための無二の素材でもある。




 十一月十四日

 ピートは私に親しいゆえのぶ遠慮なことを言う。私は親しいゆえの言葉と思っていたが、それは軽蔑だとさとる。彼にとって近しい私を軽んじることはやさしい。そして私は何も逆わない。が、それは何という苦しみだろう。私は尊敬されたいとは今は思わない。しかし彼にとってさえ私の欠点や私の自暴自棄の行いのかずかずが仮借なく映じるとしたら、私はもうどこにも憩いを見出さないだろう。ピートに注いだ私の愛情と保護はそのまま現在のさびしさとなる。

 私は過去に幼い全心をもってママンの愛情をまった。だからいま私がママンの愛情を信用しなくても十分のわけがある。私がテルの歯痛に無関心なように、ママンも何を言おうと私が九度以上の熱をだしても無関心だ。死んでみるまで重病とは思わなかったと気づく家婦のように。
 うちには弱さに対する何という本心の無関心、あるいは苦しむ者への冷淡さがあるのだろう。暖かい家庭? 私は失望し、一心にとりつくろうのはやめだと言いたくなる。慰めだの励ましだの求める方がどうかしている。ここは共同風呂のように知識を交換する広場にすぎない!

 心から歓迎されない以上押しかけていくのはいやなように、言いたいことも言いたくない。愛情以外のものに迎えられるくらいならいっそ黙っていよう……つい話しては、ああまた!といやなめにあうから。そうすることそのことが二重に、孤立の苦しさと、彼らに不当だ、彼らはほんとうは愛情深い人びとなのにということで苦しむ。私は失望からくる怖れに従って黙ってしまう。
 私は自分を照らそうとして光るほたるのようにかがやこうとする。自分の熱で暖まろうとする。暗夜の中にいるように、雪の上に坐りこんででもいるように。どうしていつまでもかがやかないのだ? どうしてともしびを消し、ぬくもろうとする努力を止めるのか? 支えがないのだ。人を照らした偉大な人、人を暖めた優れた人がいるのに? 彼らには暖かい揺籃があった。私には、この弱い私には支えがまったくない。心を固くする――そうせざるを得ないではないか? 私には親がなかった、そして兄弟もない、おまけに友達まで。
 人は私みたいに考えこまない。が、私は考えこまざるを得ない。そして苦しみや悲しみにますます鋭敏になった。玄関にベルをもつ人はベルがなるのをきかざるを得ない。そして来訪者のために出ていかざるを得ない……。私は架空にベルのひびきをきく精神病者か?
 ピートへの愛――フロイドならセックスだとか異性愛だとか説明することだろう。かまわないさ! ピートの心は性質からいって私のに似ているのだし、私はかつて彼の母親だったのだから失望は深くならざるを得ない。私には家族の者しかないのに、固い心の自動人形のように自分の血をもたないママや、我の強い圧倒的な姉しかないのだから。これにピートが加わるとしたら……私は防御するさ! 対抗するさ! いつまでも、棄てられた女のように面影を追いはしないさ! ピートはピートに任せるさ! 私などむろんもう必要じゃないし。しかし成長した子供に、赤ちゃんの時のままの言葉を使う母のように、私は過去をとどめている。亡き子をしのぶように、過去の幸福な時を保存する。
 ママンに失望したのは私一人だった。ママンのピートについての冷酷な嘆きをきいたのは私一人だ。私はそれがママンの本心だと言い、現在のママンはMa神父へのこうふんの反映と思っているが、ママンには実は本心もないのであって、私が許さないのは不当かもしれない。二人はパパを憎む。パパのよいところを何もみとめないし、パパの弱い心など思いやらないし、何のためにも感謝しない。そしてママンを信じ、尊敬し感謝し親しむ。パパは圧制者でママは被害者だし犠牲者なのだ。だれもその逆かもしれないという可能性を思いつかない。ママの言葉だけをきく。パパは自分で言うことができない。パパだって被圧制者であったかもしれない……。ママはこれをかえりみなかった。外の人から輸血を受けるまで。ピートに対するのと同じだ。ピートに対しては、私の血を貧血のママはもっているのだ。だれもママの冷酷の相談相手にならなかった。理性に信頼を得たばかりに、と私だけがこんなことを考える。弱い私の心は何という心電図(ママの)をしるしてみせたことだろう。
 私は羨んでいるのだろうか、ピートのためにママンを? 育て親は子供が結局まことの親に返っていくことを知る。自分の苦労も真の親の血とはならず、自分の愛も真の親の無関心に匹敵しないことを知る。そのような親の心はどんなものだろう?などと考えてみる。私に代って他の人がピートを忍耐し、私に代ってピートを楽しむのなら、私の行いの因である愛は不要になった機械のようなものだ。もう何も生産しないでいい。

 みなの軽蔑するパパは最も幼稚な理性でありながら、人間味の豊かさを時に示す。パパは不運だった。私は光を避ける罪人のように、恵まれた豊かさを意識させられると逃げはじめる。ピートにとって私は“不幸な時の友”であったわけだ。そして彼はこれを知らない。
 私は子供を失った母が、夫の胸に戻るようにママンのところに戻らざるを得ない。とにかくママンは気まぐれでもむらがあっても、不本心でも私に優しくあろうとしてくれる善意をもっているから。私は独りだ。そのために苦しむ。カタコンブで道しるべのひもを落してしまったように頼りない。暗い気持だ。だれがこの苦しみから私を解き放ってくれるだろう? 何もかもいやだ。私は慰めがないので、遠足へいきたいの、甘い物が食べたいのと口に出して言う……。


(pp.227-230)

 

 

さいごの一行がなんとも切ない。

1955年。著者が19歳ごろの記述。

苦しみを長々とつづったものだが、読んでいて辟易とはしない。つぎつぎと繰り出される多彩な比喩に頁をたどる目が牽引される。息づく色と熱がある。「私は自分を照らそうとして光るほたるのようにかがやこうとする。自分の熱で暖まろうとする」。彼女は自身の孤独をこのように表現している。

身近な人に対する相反的な気持ちは誰しも持つものだろう。孤独になると、それが煮詰まってしまう。ユキほどではないが、わたしにも経験がある。家族を悪く思いたい一方で、そう思いたくもない。矛盾に苛まれ、何度も身をひるがえすようすが上記の日記には活写されている。 

「言いたいことも言いたくない」、「私は失望からくる怖れに従って黙ってしまう」。わたしも内心でそう思うことが多い。防衛的な思い上がり。処世としていつからか、「あきらめ」が身に染みついてしまった。あらかじめ黙っておくこと。

日記はしばしば、つながりをもたない孤立したことばの宛先となる。わたしが日記を書く動機もおおよそ同じだ。ただし文才はない。あと、シリアスになれない。不真面目。

病跡学(パトグラフィー)といえば、二階堂奥歯の『八本脚の蝶』もその観点から読めるのかもしれない。いや、「人の言うことはすべてその人の呈する症状であると見ることができる」(永井均)とするなら、すべては病跡学的に受容できるのだろう。

そうね。その人の症状として、他者のことばを受け取っているふしが自分にはある。半分ぐらい。だから、対処的・ケア的に接することが多い。もう半分は鳴き声。わんわんにゃーにゃー。自分自身のことばもまた、症状/対処と鳴き声の合わせ技だと思っている。


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