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日記937


明治三十九年

 十一月十五日

 夜八時過行く。雨降りの闇夜なりしかば妹尾の角燈を借りて行く。清さんは歴史を復習しつゝありしが我の角燈を見て、マア巡査さんの様なと云う。堀野の間に入る。暫くして隣り間より「孝高」は何の読むやと尋ぬ。其語調は我に尋ぬるが如し。されど我もそれには答ふる不能。「コータカ」と覚えて居たら好いでせいと云う。後また暫く経て、清さん我等の所に来り「駐輦」の意義を聞く。されどこは堀野が教えたり。
 我と堀のと相対して予習せる間絶えず隣の間の清さんの唔聞ゆ。秀吉時代の復習らし。あゝ清さんよ、全力を尽して勉強せよ。而して後――数年の後、天晴良妻たれ、我の……と考ふ。
 帰るとき、また角燈を見て何とか彼とか云う。ふと清さんの机の上を見しに書物の傍らに子猫一匹整然と端坐せり、其対照の愛らしさ云ふべくもあらず。我猫が居るなと云へば、あなたの角燈(それ)を見て目を大きくして居ると云ふ。左様ならと云へば堀のも清さんも共にさようならと答ふ。而して清さんの声のみ我耳に残れるは如何。


内田百閒『恋日記』(中公文庫、pp.89-90)


1906年11月15日。百鬼園先生が17の頃。ここに書かれている「清さん」は、のちに妻となる。「天晴良妻たれ、我の……」という思惑通り。

「孝高」は人名であれば「ヨシタカ」ではないかと思う。でも、文脈が不明なのでわからない。黒田孝高という戦国時代のキリシタン大名がいる。あ、「秀吉時代の復習」とあった。おそらく黒田孝高のことだろう。



11月15日(火)

初冬らしい空気の静まり。昨日まで暖かかった。暖かいと賑やかに感じる。ここ数年来の天気はやけに鮮明だ。暑さ寒さがはっきりとわかる。もともとそんなものだったのかな……。むかしはもうすこし変化が微細で、あやふやだった気がする。自分の身体的な変容もありそうか。

いつも夜10時ごろにひとりで散歩をする。今日は体が芯から冷えた。犬の散歩をする人とすれちがう。吠えられる。これもいつものこと。夜、深い時間帯に連れ出される犬は傾向として、すこしユニークなところがあるような……。やたら吠えたり、興奮してまっすぐ歩けなかったり。逆に、めちゃくちゃゆっくり歩く老犬も見る。三本足の犬も見かけた。

すこし前、早朝の散歩が日課だったときもある。朝に出会う犬は、ふつうの速度でまっすぐ歩く。すれちがう人々も朝は健やかだ。知らない人からガンガン挨拶される。ビビってしまう。あまりの健やかさにおそれをなして夜の散歩に変更したのだった。

夜の人々はすれちがっても無言である。あるいは酔っ払っていたり、仕事帰りの疲れた表情だったり。おなじところをぐるぐるまわりながらおしゃべりしつづける若い人も見かける。その「まだ帰りたくない」という思いにぐっとくる。

とぼとぼ歩きながら、ふとルーツに思い至る。前々から、やくしまるえつこ系統の声色に惹かれる。そのルーツはたぶん、小学生時代に好きだった同級生、Kくんの声なのだ。声変わり前のKくん。しかし、どうして急にKくんの声を思い出したのか。今日の『恋日記』に引きずられたのかしら。


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