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日記941


 一九三六年十一月一九日 ショルデン
 およそ一二日前、ヘンゼルに自分の家系に関する嘘についての告白を書いた。それ以来、自分はどのようにすべての知人に完全な告白ができるのか、そして、すべきなのかについて考えている。それを私は望むとともに恐れている! 今日は少し具合が悪く、風邪気味だ。「困難なことが実現できる前に、神は私の命を絶とうというのか?」と考えた。事が良くなりますように!

 

イルゼ・ゾマヴィラ編『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』(鬼界彰夫 訳、講談社、p.102)より。ウィトゲンシュタイン、47歳。風邪気味で神を疑う。そして、「完全な告白」を望むとともに恐れる。ここを読んで、古田徹也『このゲームにはゴールがない ひとの心の哲学』(筑摩書房)の帯を思い出した。

“娘が、卵焼きの味について本音を隠していた。その瞬間、娘は父にとって不透明になった。”

上記の日記も、不透明さに関する煩悶だと思う。自己の不透明さ。隠したものがある。それを白日のもとにさらすべきか否か。さらに連想したのは、マタイによる福音書の「密室の祈り」。祈るときはひとり密室で、というおしえ。祈りの次元では、隠れることが告白とつながる。身を隠すことで透明になれる。

祈りとは、言わないまま言う行為だ。言わないまま言う。どっちやねん。人間のことばにはすべて、祈りがふくまれているとわたしは思う。言わないまま言ってる。隠された奥行きがある。ある程度は隠れていないと、人は発言できないのではないか。

吐いたことばがぜんぶ真実になってしまうとするなら、おそろしくて何も言えたものではない。適度な嘘が語ることを可能にしてくれる。嘘とは言い換えれば、解釈の余地。卵焼きの味について本音を隠していた、その本音にもまだ隠れた部分がきっとある。などと、あまり疑いだすと、『このゲームには~』のテーマである懐疑論の沼にはまる。

いくらでも疑える。それをわたしは望むとともに恐れている。疑い得ない真実も同じく、望むとともに恐れている。暗すぎても明るすぎても視界はひらけない。望むでも恐れるでもなく、言わないまま言う。切断しながら接続する。祈りの次元で話がしたい。

 

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