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日記944

 

(2016年)

 11月22日(火)

 朝、地震で目を覚ましてから一時間くらい、動物の動画とかを見て過ごした。それから寝て、起きて、ヘミングウェイを一編読んだ。不思議なほどに、読めば穏やかな心地が得られるという効果が持続している。とてもいい。ヘミングウェイは大昔に『老人と海』を読んだことがあるだけで、他を知らないので、これはもしかしたらヘミングウェイを読むタイミングなのかもしれない。

 私は午後の日ざしを肩越しに受けながら、そのカフェの片隅に坐って、ノートブックに書いた。ウェイターはミルク入りコーヒーをもってきた。それが冷めると、私はその半分を飲み、書いている間、それをテーブルの上に残しておいた。書くのを止めたとき、私はセーヌ河のそばを立去りたくない気持だった。河のよどみに、マスが見られたし、水面は丸太を打込んだ橋脚の抵抗にあって、押したり、なめらかにふくらんだりしていた。ストーリーは戦争からの帰還についてであったが、その中では、戦争のことには何もふれていなかった。
 ともあれ、明け方には、河は相変らずそこにあるだろう。私は、河や、国や、これからのすべての出来事を描かねばならない。そういうことを毎日やる日々が目の前につながっているのだ。他のことはすべてどうでもよかった。

アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』(福田陸太郎訳、土曜社)p.84



阿久津隆『読書の日記』(NUMABOOKS、pp.104-105)より。


ほかのことはすべてどうでもいい。そういうものがほしいと願ってやまない。「これさえしていれば」と思える何か。以前ある若い僧侶が「この教えにしたがっていればいいと、ここにすべてがあると思えた瞬間がある」といったような話をしていて、羨望をおぼえた。あるキリスト者は神との邂逅を「温泉を掘り当てたようだった」と語っていた。すごいなーと、すなおに思う。

ヘミングウェイにとってのそれは、文学だったのだろう。『読書の日記』の著者、阿久津隆さんにとってのそれは、書くことや店に立つこともふくめた営みとしての「読書」なのかもしれない。

何かに強く帰依したい。その思いを何十年も抱きながら、だましだまし過ごしている。あるいは、だまされだまされ。両方か。だましだまされ。それはそれで悪くはない。友人と会うたびに「出家したい」と話す。そこで決まって「はやく出家しろや!」とツッコまれ、笑う。このやりとりをつづけることも、悪くはない。

望もうが望むまいが、だんだん人間は「それしかできない人」になるのかなと、いつかお年寄りと接しているときにぼんやり思った。結局は、いまやっていることの延長上で「それしかできない人」になる。すでに、しらずしらず帰依しちゃってる。カッ!と運命がひらけるような経験がなくとも、おのずとやってる。できちゃってる。そのような部分もあるだろう。

とくに「これ」がなくとも、出来合いのものを「これ」と仮定して現在進行系で適当にやっているのだ。それでも、いくらか空想的な幻想に焦がれてしまう自分がいる。天啓、募集中。典型的な迷える子羊みたいなことを書いている。つまり、うだうだ迷いたくないのだね。迷わず「これじゃ!」と思いたい。シンプルに。

でも、たぶんわたしは永遠に迷う。迷わず迷う。迷わず迷うか……。おなじようなところを、何十年もぐるぐるしている。「ひとつ」を求めて、手広くやる人生。




(2022年)

11月22日(火)

12月9日まで日記のスケジュールを埋めた。今週末には12月ぜんぶ埋める。日記の引用も、なんとなくの「帰依」なのだろう。八十八ヶ所を巡るような。軽い依存と言い換えてもいい。ほんとうは、なにかひとつのものに依存し切ってしまいたい。

なにか。すべての時間をあなたに捧げたい。高橋真梨子ではないが、「あなた」がほしい。もっと奪って、心を。自意識が邪魔だ。「わたし」はいらない。心を失いたい。無心に、なにか。

雑誌『精神看護』(医学書院)の9月号を読みながら、「アディクションのソフトランディング」ということばが浮かんだ。自分の依存的な性向を軟着陸させる。そのために、こうやって毎日ブログを書いたりインスタに写真を上げたりしてんだろうなと思う。

「帰依」からの連想で、尾崎翠の文章を思い出す。

 

 悲しみを求める心
 私は死の姿を正視したい。そして真にかなしみたい。そのかなしみの中に偽りのない人生のすがたが包まれてゐるのではあるまいか。其処にたどりついた時、もし私の前に宗教があつたら私はそれに帰依しよう。又其処に美しい思想があつたら私はそれに包まれよう。


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