スキップしてメイン コンテンツに移動

日記947


 

 十一月二十五日

 ○地上には白い霧が淡く降りているが、空は燦爛たる蒼い日の光に満ちた美しい朝である。田町駅から会社へ半里の路を、大股に歩きながら、自分は始終微笑を洩らし続けた。
 何かこの頃は愉快でならない。天気のよいせいであろうか? それもある。自分が働いて生きているという満足感の為であろうか? それもある。が、歓喜は心の内面から仄かに照り通ってくるような気がする。
 「真」とは何であるか? 「善」とは何であるか? 「美」とは何であるか?
 これを追い求める心が、漸く微かながら萌え出て来て、それが魂の内側へ次第に廻り込んでゆく最初の出発点に立ったような喜悦の念である。
 日記は魂の赤裸々な記録である。が、暗い魂は自分でも見つめたくない。日記を書いて置こうと思い立ったのも、この悦ばしく明るい魂のせいかも知れぬ。しかし、嘘はつくまい。
 ○アダムス・ベック『東洋哲学夜話』を読む。


山田風太郎『戦中派虫けら日記 滅失への青春 昭和17年~昭和19年』(ちくま文庫、pp.9-10)より。本の冒頭、昭和17年(1942年)の11月25日。山田風太郎、20歳。最初の日記。「はじまり」はなんであれ、わくわくするものだ。「はじまりはいつも雨」という説もあるが、この日記のはじまりはじつに晴れやか。 

「日記は魂の赤裸々な記録である」という。日記とは何か。まいにち他人の日記を読んでいると、つい考えてしまう。ひとつ思ったそれは、部分であり全体であるということ。山口尚『難しい本を読むためには』(ちくまプリマー新書)を読んで得た着想。

「読書とは行ったり来たりの運動だ」と山口氏は書く。とくに部分と全体をグルグル往還するものらしい。『難しい本~』を読みながら、これは読み方であり書き方でもあるなと感じていた。まさにグルグル。いや、すべての読み方指南は書き方指南でもあり、書き方指南は読み方指南でもあるのだと思う。読み書きは行ったり来たりの運動だ。

日記は一日の積み重ねから成る。部分を積み上げて全体を築こうとする目論見であるといえる。一日単位のなかにも部分と全体の関係がある。その日の部分部分を並べ、全体を俯瞰し、ふたたび部分へ――といった運動として読める(書ける)。

「グルグル回りにうまく入り込む」「自分と文章とのあいだに一定の循環関係をつくる」といった山口氏の考え方は、個人的にとてもしっくりくる。なんにでも応用がきくため、なんにでも適用したくなる。

というか、いつも無自覚にやっていた。読むときも書くときも。いや、「なんかグルグルしてる」という自覚はあった。迷路のなかをさまよっているようで、どんくさくてよくないことだと思い込んでいたのだ。しかし、山口氏によるとこの方法は「正攻法」だという。「それでいい」と背中を押してもらったような気になる。ありがたい。

具体的には、目次(全体)と本文(部分)をいったりきたりする癖がある。読みながら、オリジナルの目次や見出しを新設することもある。足りない全体を補完するように。「循環関係」は「補完関係」と言い換えることもできる。補完し合うようにことばと接している。

大きくいえば、ヒトの認知は基本的にグルグルするようにできているのだと思う。ループ&ループ。グルグルをやめることはできない。死ぬまで止まらねえ……。だからせめて、できるかぎり良さげなバイブスでグルグルしていたい。山田風太郎のことばでいうと「悦ばしく明るい魂」で。すなわち、できるかぎり良さげなバイブスで。


コメント