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日記948


 

 日々雑記 十一月

 ある日。
 H(娘)が隣りの茶の間から、あ、おかあさん、たいへんなことが起りました、と襖越しに静かな声で言うのを、朝、ふとんの中で聞いた。襖をあけると、Hが新聞をひろげて、しゃがんだ恰好で見ていた。「ここ。ここ」人さし指で押えたところに、島尾という太い活字と、島尾敏雄さんの困ったような顔に撮れている笑顔の写真があった。
 こんな風に、新聞の訃報で眼をさましたのは三度目だ。一度目はマリリン・モンロー、二度目はケネディー。一度目と二度目は、夫が枕元へきて低い小声で起した。どんな日も夫は私より早起きだった。夜中に起き出して朝御飯まで、原稿用紙をひろげた机に向ってじーっと坐っているのだから。
 百合子百合子、マリリン・モンローが死んだよ。ケネディーが死んだよ。
 ケネディーのときは、嘘ばっかり、とひっかぶってしまったふとんをめくり、本当だよと新聞を見せた。マリリン・モンローのときは夏の盛りで信州の山奥の湯治場に逗留していた。秋になり東京の家へ帰ると、深沢七郎さんがふらりとやってきた。当時、小説『風流夢譚』で右翼にいいがかりをつけられ、住所不定となって暮していた深沢さんは、一ヶ月に一度か二度、気が向くとどこからかやってきた。「こないだ、マリリン・モンローが死にましたねえ。あの人は腕なんか綺麗だったねえ。腕だけ写真でちらっと見てもはっとしたね。モンローだってことすぐわかった。ほかの女とはどこかちがった出来だった。でも綺麗な女は綺麗なうちに死んだ方がいいですねえ。ブリジット・バルドオなんかも婆あになるまで生きてられちゃがっかりだ。モンローが死んだとき、生きてるってことは人の死んだ知らせを聞くことだって思いましたねえ」鰻重とって食べようと夫が言っても、食べたくないと言い、あれもいらない、これも結構、とお茶だけ何杯も啜りながら、そんなことや、そのほかのこともしゃべり続けたあげく、ギターをとり上げ、途中三べんぐらい間違え、その都度丁寧に弾き直したりしながら、按摩さんのように首をかしげて「楢山節考」を歌い(泣虫の夫は聴きながら涙をこぼし)、レコードを二枚くれて、ふらりとどこかへ帰って行った。




武田百合子『あの頃 単行本未収録エッセイ集』(武田花 編、中央公論新社、pp.222-223)より。11月の「ある日」。日付はなかった。ただ、島尾敏雄が亡くなった日は昭和61年(1986年)11月12日だそうなので、ルール違反。今日の日付、11月26日の日記ではない。でもいいか。月に1~2回くらいは、月だけ合っていればよいことにする。この文章はもうすこしつづくが、長いのでここまで。これで半分くらい。記憶の連鎖。この心地よさはなんだろう。


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