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日記950


 

十一月二十八日

今日は朝っから凄い事を仕出かした。夜ちっとも寝られなかったので、うんと寝ぼうしようと思って、目が覚めてたけど寝ようとしてた。でも眠れなくて、くしゃくしゃしてたら、看護婦さんが、もうお起になったら、今日は安斎先生がいらっしゃるからと云う。そして起きて顔を洗う時に、その事でかんしゃくを起して看護婦さんの前掛をひっぱって破いてしまった。随分凄い力があったもんだと今は思うけど、その時は夢中で、ピリーッと言う音を聞いてはっとしたらもう破けてた。その時は弁償する弁償すると呶鳴ったけど、後で何だかかなしくなって、恥しくなって涙をぼろぼろ出して母さまに話した。そしたら凄いかんしゃくだと言われた。私は軽々しくへんな事を言う、つつしみましょう。

 

 

山川彌千枝『薔薇は生きてる』(創英社、p.196)より。1932年(昭和7年)の11月28日。彌千枝さん、15歳。彼女はこの翌年に肺結核で亡くなる。享年16。 

美しいばらさわって見る、つやつやとつめたかった。ばらは生きてる。

本の表題にもなっている山川彌千枝の短歌。薔薇のつめたさは触る指のあたたかさを物語る、という穂村弘の解説にうなづく。わたしはこの歌の、「い抜き」が気になる。「生きている」ではなく「生きてる」。「生きている」であれば台無しだろう。

この歌にかぎらず、日記の文章もだいたいが「い抜き」。「寝ようとしてた」「くしゃくしゃしてたら」「破けてた」。とくに言挙げするほどのことではないのかもしれないが、「い」を抜くと幼くなる。少女っぽい。「い」を入れると逆に、それだけでおとなっぽくフォーマルな印象になる。言うまでもないか。

「い抜き」や「ら抜き」は文として性急な印象をもたらす。こどもっぽく、はやるような。思ったことをそのまま書いたような。書く意識よりも、喋る意識が先んじた表現。すぐに伝えたい。「ばらは生きてる」の「い抜き」は、これ以上ない「い抜き」だと思う。軽やかに、速やかに伝わる。屈託がない。「い」を抜かない文体には屈託がある? 多少あるかもわからない。

彌千枝さんのことばはどれも、まっすぐで健やかだ。病に伏せていてもなお。「美しいばらさわって見る」の時点でもう、まっすぐ過ぎてくらくらしてしまう。まぶしい。

 

 

11月28日 (月)

公衆トイレで小用を済ませ手を洗っていると、女性が入ってきていきなり「ギャー! 男!」と叫ばれた。「男子トイレです」と冷静にお伝えしたところ、「ギャー! すいません!」と叫びながら出ていった。数秒間の出来事。嵐のような人だな……と思った。50代くらいのおばさまだった。なんか複雑な気分が残る。 

母が自信満々にRADWIMPS(ラッドウィンプス)のことを「レッドウィックス」と呼んでいた。

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