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日記951


 1999年11月29日 月曜日 3:00:15 AM

 先日自分のバンドのライブがあって、毎日リハしていたわけだが、○○のバカが先日初めてアルティメットファイトを見たと言って興奮していた。というのは前書いた通り。そんで、高井も含めた、全く格闘技に興味がないメンバーとメシを食っていて、ちょうどそのとき「週刊プロレス」を持っていたので、みんなに見せたわけだ。1頁ずつめくって説明してはみんなの反応を見るのはオモロイもの。
 みんなが一番楽しそうに笑い、また僕も見せるのが一番気持ちよかったのは前田の襲撃事件でもアルティメット戦でも、グレイシー敗れる。のニュースでもなく、「冬木、電気ウナギと電気ナマズの入った水槽に入って、来るべき電流爆破戦の感電に備える特訓」という写真だ。水槽に横たわり、両手にナマズを持って絶叫する冬木の写真がこれまた素晴らしく(冬木の半笑い加減が最高)、見せていて誇らしい気分にすらなった。これは単なる「大阪仕事」ではない。冬木は、これがプロレスの本道なんだ。というお題目を信じる(反作用として「疑う」も同時に)面と、好きなようになるように流されてみたらこうなった。俺はこれしか出来ない。というローリングストーンの面とのロデオを乗りこなすかなりのサムライであり、濃厚なブルース奏者である。大仁田のような、はぐれ者のロマンティシズムとかナルシシズムがないところがよい。なんというか、アメリカ人ぽい(まあマクマホンのコピーなのだが、コピーだから外人ぽいのではなく、外人ぽいから「これだ」と思ってコピーしたのだろう)。冬木かっこいいぞ。



菊地成孔『サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍 僕は生まれてから5年間だけ格闘技を見なかった』(白夜書房、pp.36-37)より。意識と無意識が和合してなにやってるかわからん感じ。しかし曖昧ではなく、確実に「これだ」という感じ。半笑いで疑いながらも、ほんとうにやる感じ。つまり電気ウナギと電気ナマズで電流爆破戦に備える冬木弘道の感じ。

「つくりごと」と「マジもん」の配分が絶妙で真偽不明な感じはプロレスの真骨頂といえる。真偽不明だけどマジでヤバいと噂の何か。それは「伝説」とか「神話」とか呼ばれる「言い伝え」に近いのかもしれない。

プロレスは「真偽不明だけどマジでヤバいと噂の何か」を生成するために頭を使い体を酷使する、とても知的な営みだと思っている。もちろん観客もその「噂」を流すためのプレイヤーとなる。「伝説の生成」を主眼とするなら、観客こそがプレイヤーだろう。プロレスラーたちはリングに上がり、全身全霊で観衆に伝説を託す。観る者は、目の前の光景を語り継ぐよう託される。

それがプロレスの熱い構造であると、わたしは思う。熱心なプロレスファンは、「リングの上から託された感覚」みたいなものをすくなからず持っているんじゃないか……。どうだろう。プロレスファンはよく語る人が多い(気がする)んで、そんなに間違ってはいないと思う。

いや、プロレスにかぎらず観客とは一般に「託される人」と考えることもできる。リング上から、ステージ上から、紙面上から、画面越しから、なんか託される。なんか。何を受け取るかは、たぶんお客さんひとりひとり異なる。

何を受け取るか。うーん。わたしはどこで何を観ていても「なんでこれを観てんだろう?」という疑問が抜けない。けっして作品やステージに文句があるわけではない。文句はない。自分の問題として他意なく、純粋にわからない。なぜ観客という役目を、文字通り買って出るのか。

別役実のエッセイ、「演劇とユーモア」でも観客の謎が指摘されている。これを読んだ高校生のころ、もやもやがすこし晴れた気がした。謎が解明されたわけではない。「こういう問いがあってもよいのだな」と思えてほっとしたのだ。結論部分だけすこし引く。


 未来においても、「観劇」という驚異的な習慣は残り、「劇場」という驚異的な場所も存続するだろうと思われるが、何故役者たちが演じ、何故観客たちがそれを見るのか、という疑問に対する正確な答えは、遂に答えられることなく終わるのではないだろうか。つまり、それが答えられない限りにおいて、演劇は永遠なのである。そして、演劇におけるユーモアの本質も、実はそこにある。


『電信柱のある宇宙』(白水Uブックス、p.181)より。「なぜ演じるのか?」みたいな問いはありふれているけれど、「なぜ観客がそれを見るのか?」はあまり問われない。わたしは演者より、観客の存在が謎だと思う。観客は自分自身を、なぜ問わないのか。おかしいと思わないのかお前ら……。もちろん演者も謎で、それは観客の謎とも不可分な謎だ。そしてこの謎は突き詰めると、「なんで生きてるの?」という大きな問いにもつながるんではないかと見ている。なんとなく、感覚的に。

「自分らのやっていることについて正確に答えられない」、これが演劇におけるユーモアの本質というお話は、もっと普遍化できる気がする。人間は誰でも、自分らのやっていることについて正確に答えられない、滑稽な存在ではないか。

わたしはどこで何をしていても「なにやってんだろ?」という疑問が抜けない。なにやってんすかね。油断するとパニックに陥るため、両手にナマズを持って絶叫するぐらいの気合いがつねにほしいところ。

おそらく1999年の冬木弘道も、自身のやっていることについて正確には答えられなかっただろう。なにをやっているのかわからない、しかしこれしかない!という気合いだけで持っている。それが独特のユーモアにつながる。

よくわからんけど、やるしかない!みたいな滑稽味は僭越ながら、わたしのなかにもずっと流れている。すべてはよくわからない。我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。ひとつもわからん。でも適当にぶらぶら生きてる。おかしい。


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