スキップしてメイン コンテンツに移動

日記952



 十一月三十日
 十時、東京へ帰る。籠坂峠の頂上から、富士小山あたりまで濃霧。ほとんど何も見えぬ。

 

武田百合子『富士日記 中 新板』(中公文庫、p.38)。1966年(昭和41年)11月30日。とくに狙ってはいないだろうけれど、「帰る」「濃霧」「見えぬ」と脚韻を踏んでいる。どうでもいい話。

今日で11月はおわり。今月の日記を列挙してみる。

7日から、だったか。

・吉岡実『うまやはし日記』(書肆山田)
・著者不詳『創作』(リクロ舎)
・『タルコフスキー日記Ⅱ 殉教録』(キネマ旬報社)
・『タルコフスキー日記 殉教録』(キネマ旬報社)
・二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社)
・武田百合子『富士日記 上』(中公文庫)
・武田百合子『富士日記 下』(中公文庫)
・笠原嘉編『ユキの日記』(みすず書房)
・内田百閒『恋日記』(中公文庫)
・ミルチャ・エリアーデ『ポルトガル日記』(作品社)
・ハンス・カロッサ『ルーマニヤ日記』(新潮文庫)
・池波正太郎『食べ物日記 鬼平誕生のころ』(文藝春秋)
・『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』(講談社)
・川上未映子『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(ヒヨコ舎)
・内田百閒『百鬼園戦後日記』(ちくま文庫)
・阿久津隆『読書の日記』(NUMABOOKS)
・島尾敏雄『日の移ろい』(中央公論社)
・五木寛之『日記 ―十代から六十代までのメモリー―』(岩波新書)
・山田風太郎『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫)
・武田百合子『あの頃』(中央公論新社)
・神谷美恵子『日記・書簡集』(みすず書房)
・山川彌千枝『薔薇は生きてる』(創英社)
・菊地成孔『サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍』(白夜書房)

そして今日の『富士日記 中』と。ほとんど自室にある本から引いた。図書館で拾ったものは一冊、池波正太郎だけ。12月の数日で自室の日記本はおおかた尽きる。そっからが本番と言っていい。日記本採集、1年つづいたらすごいと思う。まったく無意味だけれど……。おそろしいほど無意味なことをやり始めた。ひまなの? いや、そんなにひまじゃないの。

今月、書肆山田が廃業するというtweetを見かけて暗澹たる気持ちになった。しかし、誤報だったらしい。めでたしめでたし。あらゆる情報を慎重に吟味すべし!と改めて自分に喝をいれる。

他方で、へんな安心感もある。みんないい加減に発信してんだなーという。人間の、「なんにも知らないくせに適当なことを言う能力」は前々からすごいと感じる。「なんにも知らないくせに適当なことを言う能力」がなければ、たぶん希望も絶望もありえない。

わたしたちは、なんにも知らないくせに適当な希望を抱いたり、なんにも知らないくせに適当な絶望に打ちひしがれたりする。日々。なんにも知らないくせに愛したり、なんにも知らないくせに憎んだり。行き過ぎている。

その過剰さがなければ人類はここまで繁栄しなかったのだろう。情報はつねに、過剰だったり過少だったりする。通り過ぎたり、届かなかったり。その差分を“感情”と呼ぶのかもしれない。

過不足のなさ、にずっとあこがれている。
やすらかな沈黙に。


コメント