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日記957


 

 十二月五日。
 今日は午前ちゅう、ずっと新聞を読んですごした。スペインでは妙な事件が起こっている。おれには、どうもよくそれがのみこめない。記事によると、王位につく者がいなくなって、王位継承者を選ぶことで、臣下の者が難局に逢着し、そのため不穏の空気さえ醸成されているということだ。どうも奇態な話だ。王位を継ぐ者がないなんて、いったいどういうんだろう? なんでもある貴婦人が王位を継ぐことになっているそうだが、女が王位につくなんて、そんなことがあってよいものか? 王位には国王がすわらなきゃならないものだ。ところが、その国王になるものがいないという。国王がいなくては、すまされまい、一国に国王がいないなんて、そんな法があるはずがない。王さまはいるのだ、しかしそれが、きっと、どこかにこっそり隠れているだけの話さ。たぶん、国内にいるんだろうが、なにか一門の紛争があってか、それとも隣りの強国、つまりフランスか、どこかの国がこわくて余儀なく姿を隠しているのにちがいない、それともほかになにかの子細があるのかもしれない。


ニコライ・ゴーゴリ『狂人日記 他二篇』(岩波文庫、p.205)より。横田瑞穂の翻訳。サンクトペテルブルクの下級官僚が徐々に狂っていくようすを描いた、1830年ごろの小説。この伏線は次のページで急展開を迎える。


 二〇〇〇年、四月四十三日。
 今日はたいへんめでたい日だ! スペインに王さまがいたのだ。見つかったんだ。その王さまというのは――このおれだ。今日はじめて、それがわかった。うちあけていえば、まるで稲妻が照らすように、ぱっとそれがわかった。いったい、どうしてこれまで自分が九等官だなんて思っていられたのか、わけがわからぬ。あんなとほうもない狂気じみた空想が、まったくどうしておれの頭へ浮かびえたのか? まだだれ一人おれを精神病院へ入れようと思いつかないうちで、まあまあ仕合わせだった。いまや、おれにはなにもかもがはっきりした。いまのおれには、いっさいが手に取るようにはっきり見える。ところが、いままでは、いっさいがまるで霧にでもつつまれたようで、おれにはなにもわからなかった。どうしてそうだったかというと、人々が、人間の脳髄は頭のなかにあると思いこんでいるせいだと、おれは思う、そんなわけのものじゃけっしてないのだ、人間の脳髄はカスピ海のほうから風に送られてやってくるのさ。(同書、pp.206-207)


なるほど、あなたがスペインの王だったか。そういう日もあると思う。さいごの、「人間の脳髄はカスピ海のほうから風に送られてやってくるのさ」というアイデアはなかなか素敵だ。「脳髄は頭のなかにある」という四角四面の理解より、おしゃれで好き。ただ、それが真実だとわかってしまうと危ない。

ゴーゴリは「わかった」の連呼で「狂人」を表現している。現実にもそうなのだと思う。あんまりわかってしまうとヤバい。語尾に「知らんけど」をつけるぐらいがちょうどいい。「知らんけど」とは、自分を相対化する視点であり、話を完結させないことによってやわらかく他者を迎え入れるための符牒である。「to be continued...」とだいたいおなじ。知らんけど。

「狂人」までいかずとも、怒りにとらわれたときなんかはわかってしまいやすい。さいきん、身近な人間関係で揉め事が起きた。揉めている当事者ふたりの話を聞くと、ようするに「おれがいちばんわかっている!」と両名とも主張している。わかっちゃうと揉めやすい。

こういうときは経験上、教えを請う態度で接するといくらか懐柔できる。あなたのわかっているそれを教えてほしい、と。できるかぎり、誠実な好奇心をもって聞く。そのさい、なにも判断しない。ただ相手の世界観を知る。

たぶん「狂人日記」の「おれ」を前にしても対応は同じだ。スペイン王でしたか、それはそれは……。もうちょっと聞かせて? とふつうに話しかける。聞いていけば、彼もだんだん落ち着いてくるんじゃないかなー。どうだろう。問題の根幹は、孤独にあると思う。

わたしは基本的に何のやる気もない人間だけれど、揉め事をどうにかしたい気持ちだけは強い。だから、揉め事が起きたときにだけ真価を発揮する。そういう役割なんだなと、ここんとこ考えていた。世界をつまらなくする役割。加速したものを減速させる。肥大したものをちっぽけにする。まあまあまあまあ……。

揉めてほしくないのよ、ほんと……。かといって、仲良くしてほしいのでもない。仲が悪くてもかまわないが、節度をわきまえてほしいと願う。かたちだけでいい。それぞれ個別の「いい塩梅」を保守したい。礼節を保てる範囲を。あなたなりの、わたしなりの。


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