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日記967


 

十二月十五日(月)
『つゆ草』を読む。「ふっつ・とみうら」や「結婚」も収録されている。巻末の「初出誌」を見ると「結婚」の雑誌初出時のタイトルは「やもめ爺と三十後家の結婚」とある。ほんの少し夫人の表情が変った(気がした)、理由が、わかった(気がした)。目を左側の頁に移し、奥付を眺めると、「昭和五十二年十二月十五日 第一刷」とある。そうか、今日は丁度『つゆ草』が刊行されて満二十周年の日なのか。

 

 

坪内祐三『三茶日記』(本の雑誌社、p.27)より。97年12月15日。『つゆ草』は川崎長太郎の小説。2022年の12月15日は刊行45周年になる。しかし不勉強ながら、川崎長太郎は読んだことがない。名前を目にしたことは何度もある。未だ中身のない固有名詞。

わたしの頭は中身のない固有名詞だらけで軽い。「名前だけ聞いた/見た」が大量に敷き詰められている。「名前だけ」の量には自信がある。まるで籾殻の詰まった米俵のような頭だ。スカスカでまったく食えない。ただ、軽くてよい。リズムはとれる。つまり、相槌くらいは打てる。しかし相槌以上の情報はない。あー、川崎長太郎ね。坪内祐三の本で見かけた。あの、小説家のね、あれね。はいはい。

ほかにたとえば、いまパッと「シュトゥルム・ウント・ドラング」という単語が浮かんだが、なんのことだかわからない。ドイツ語であることはわかる。ドイツ語である。以上。調べれば「あー」ってなると思う。あれね。はいはい、と。

「ピーターファンデンホーヘンバンド」という謎の呪文もよく浮かぶ。これもなんのことだかわからない。しばらくすると忘れてしまう。またしばらくすると浮かぶ。羽虫が湧くように、ときどき「ピーターファンデンホーヘンバンド」が湧いて出る。いつかバンドを組むとしたら、名前を「ピーターファンデンホーヘンバンド」にしたいなと思う。

バンドといえば、きょうOfficial髭男dismの「Subtitle」という曲をラジオで聞いた。歌詞のワンフレーズが記憶に残っている。「正しさよりも優しさが欲しい」。優しさは正しくない場合があることを含意している。なるほど。そこで思い出したのは、すこし前にバズっていた以下のツイートだ。

 

 

ほとんどおなじフレーズが出てくる。「正しさよりも優しさを」と。「Subtitle」のリリースは10月12日なので、7月12日のツイートのほうが元祖。符合は偶然だろう。どちらも、ようするに「公より私」というお話なのだと思う。髭男の歌詞もこうつづく。

 

正しさよりも優しさが欲しい そしてそれを受け取れるのは
イルミネーションみたいな 不特定多数じゃなくてただひとり
君であってほしい

 

「正しさよりも優しさ」と「不特定多数じゃなくてただひとり」は対応している。「正しさ=不特定多数」、「優しさ=ただひとり」と。ツイートのエピソードも、公にするよりまず目の前の「本人」を思って動けるといいね、みたいなご教示だろう。不特定多数じゃなくてただひとり。「正しさ」はいくらか抽象的で、「優しさ」は具体を見失わないことだ、ともいえそう。

たとえば、目の前にいる人が手を滑らせてお皿を割ったとする。そこで割れたお皿がもったいないと思うか、怪我はなかっただろうかと思うか。皿を見るか、人を見るか。抽象的な価値に目を向けるか、具体的な生きた存在に目を向けるか。正しさか、優しさか。

もちろん「どちらか」で割り切れる話ではないが、こんなふうに整理できるかとラジオを聞きながらぼんやり考えていた。ほとんど無意識に頭のなかで概念を整理しはじめる癖がある……。すぐデフラグするような感覚。軽くしたいのだ。

 

 

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