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日記968


 

 

12/16/73 ミラノ

[トポイ]とは、レジスタンスのひとたちが書いた遺書に出てくる言葉:
  もうすぐ私のせいであなたが被る苦しみについて赦してください
  悔いはない
  自分は死んでいく……(党/国/人類/自由)のために
  自分のためにあなたがしてくれたことすべてに感謝する
  Xというかたちで生きつづける
  ○○に伝えて、自分は……
  もう一度、自分は……

似てる、国+階級の如何にかかわらず(トーマス・マンがまえがきを書いた本[『若き死者たちの叫び――ヨーロッパレジスタンスの手紙』]――エイナウディ社刊、一九四五年――トルストイ短編集収録の『イワン・イリッチの死』の解説)
なぜこれほど似ているのか?
役に立つ意思疎通をしたいという欲求

:(a)簡潔
鮮明
微妙さ、洗練にこだわっている場合ではない

このような手紙は何よりも、実際的な交信のため。
その目的は:
  苦しみを和らげる(軽減する)
  死後も生きつづけること、いかに記憶されるか、を担保する(形成する)
(アリストテレスの『弁論術』の実例としてぴったり)
そうは言っても違いもある:
相手の重要性、人格の固有化、「極私的な」気持ちを表わすことへの自己規制、「感傷」(この要素が最も小さいのはアルバニア〔+一般論を言えば、共産党員〕の場合で、いちばん大きいのはフランス、ノルウェー、イタリア、オランダ)
プロテスタントの国+カトリックの国の違い
手紙を書く相手の大半は母親、父親ではなく――か、妻――子供 

 

 

スーザン・ソンタグ『こころは体につられて 下 日記とノート1964-1980』(河出書房新社、pp.162-163)より。73年12月16日。思考の断片を記した走り書き。わたしはこういう本を好んで手にしがちだ。想定読者の規模が限りなくちいさい、ごく個人的なことばの集積。ぱっと思いつくものだと『チェーホフの手帖』や東宏治『思考の手帖 ぼくの方法の始まりとしての手帖』などを過去によく読んでいた。ソンタグの日記も図書館で何度となく借りている。

アフォリズム的なことばの切れ端にふれると、ときに閃光が走るような、視界が一挙にひらけるような感覚が得られて癖になってしまう。twitterのタイムラインをえんえんスクロールしつづけるような中毒性と変わらないのかもしれない、とも思う。まったく高級な感覚ではない。ギャンブルにも近い。頁をめくっていると、たまにいいことがある。

乱雑に積まれた100円均一本のなかから、「これ」というタイトルを見つけ出す感じにも似ている。スーパーの見切り品でもいい。雑に陳列されたクズ野菜から、いい感じのものを見繕う。川の砂利を何度も濾して砂金を見つけ出すような、罰ゲームみたいなお宝探しがどういうわけか好きなのだった。結果はハナからもとめちゃいない。「お宝があるかもしれない」と心ときめくその過程に憑かれている。

 

スタンダールいわく、「犯罪的とも言えるほどの情熱で」母親を愛していた(p.217)

書くためには、どんなに孤独でもまだ足りない。よりよく見るためにも。(p.247)

 「人が写真を撮るのは、ものを意味の外に追っ払うためなのです」――カフカ(p.174)

 

拾いあげて、これは玉だろうか石だろうかと考える時間もたのしい。

 

プロジェクト:自分のなかの写真家の眼(語れない)を詩人の眼に変えて、それをもって聴く――言葉を。具体的に見る:抽象的に書く。目指すのは:作家として、こういう具体性を手に入れること。今夜のインド料理店におけるディナ―での、ボブ・S[シルヴァース]の鼻のアタマのてかり。(p.246)

 

ここを読んだとき、虫明亜呂無『女の足指と電話機』を思い出した。女の足指と電話機。具体的な単語の並びから、抽象的な想像を換気する。写真的であり、詩的でもある。合わせて映画的? こういう具体性のことだろうか。わからないけれど、こうした、迂闊な連想を誘発する短さが自分にとってはうれしい。

 

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