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日記970


 

 十二月十八日
 夢の中で、あれは誰だったかしら、詩人か歌人、多分「アララギ」のよく知っている歌人と話をしていた。○○氏に頼んで、なんとかいう雑誌に出して貰うんだね、というようなことを言われた。僕は冷くゴーマンにひねくれて答えた。僕は今の詩人なんかほとんど認めていないんです。そっぽをむいて歩きだした。その人は「あなたはそれだから……」と言い、あからさまにケイベツの情を現わした。泣きたかった。まだ、信ずる何かがあった。このうえなく嫌な気持。

 

北杜夫『或る青春の日記』(中央公論社、p.315)より。1949年(昭和24年)12月18日。北は若いころ詩人を志していたが、途中であきらめたそうな。詩に対する複雑な感情がうかがえる夢。

 

 

12月18日(日)

ときどき、神の孤独を思う。古田徹也『このゲームにはゴールがない ひとの心の哲学』(筑摩書房)のさいごに、まさしくその指摘があった。

 

 もしも、あるとき我々のうちの誰かに超常の力が宿り、自分以外のあらゆる存在の行動や反応を常に予見して、完全にコントロールできるようになったとしたらどうだろうか。我々はその者を羨むかもしれない。あるいは、「神」と崇めるかもしれない。しかし、その「神」ほど孤独な存在はいないだろう。その者ほど、寂しさから救われない存在もいないだろう。(pp.276-277)

 

「神の対義語はなんだろう?」と考える。それは、赤ちゃんではないか。赤ちゃんは、なんにも知らなくてかわいい。神は、ぜんぶ知っててかわいくない。赤ちゃんは孤独だと生きていられない。神は究極的に孤独な一者である。

「寂しさ」はたぶん、赤ちゃんにも神にもなれない狭間に生きる人間だけが抱く。『このゲームにはゴールがない』という本は、幼い娘のエピソードから始まり、神の孤独を指摘して終わる。この構成が示唆的だと思う。そのあいだでは、人間的な「懐疑」や「心」や「寂しさ」などについて論じられる。哲学的な人間模様を描いていると言ってもいい。

懐疑は「わかる」とも「わからない」ともつかない中域に生じる。「心」も「寂しさ」も、おそらく同様の中域で発生するものではないか。透明でも不透明でもない。古田氏は「他者の半透明性」ということを書いている。

 

 自分にはコントロールし切れない、ままならない、不確かな他者の存在と、その他者との言語ゲームは、我々にとって忌避すべき悩みの種であり、ときに悲劇の原因ともなる。にもかかわらず、それは同時に、我々が求めてやまないものでもある。不信と懐疑を呼び込む他者の半透明性は、我々のこうした両義的な切望に対応している。それゆえ、我々は生き続ける限りこの半透明性から逃れられないし、完全に逃れようともしない。(p.274)

 

赤ちゃんにとって世界はあまりに不透明であり、神にとって世界はあまりに透明である。どちらの状態でも自由がない。この両極のあいだに存する人間の心は、半透明に逍遥する。逍遥できる自由がある。我々は自由から逃れられないし、逃れようともしない。

この本、「赤ちゃん/神」の二項を補助線にすると、もしかしたら読みやすくなるのかもしれない(わたしだけか?)。『このゲームにはゴールがない』で解説される懐疑論者は、ときに赤ちゃん的であり、ときに神的でもある。目の前にあるコップの存在さえ疑ってかかる極端な懐疑論者は、赤ちゃんっぽい。他者を完全に透明化したがる懐疑論者は、神を目指している。古田氏はそのどちらでもない、人間の生活域を1冊かけて丁寧にあぶり出す。それは一抹の自由を召喚するための道程なのだと、わたしは思う。自由の概念を論じた本ではないが、勝手にそう読んだ。

 

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